きっと明日も
校舎を出てすぐの、誰なのか全く分からない銅像の前で僕は立っていた。スマホから次々と流れてくる情報を流し読みしながらちらちらとあの子のクラスの下駄箱を見る。あの子の担任の先生はホームルームが長いことで有名だ。僕のクラスの友達はほとんど帰ってしまった。
YouTubeは飽きたので今度はインスタを開く。仲のいい友達が、親しい友達だけに公開している投稿内容は彼女とのツーショット。羨ましいけど僕ならネットにあげる勇気はないな、なんて考えながら次のストーリーを見ようと画面をタップした。インスタのストーリーは目に付いたら全部見ないと行けないような気がして、特に興味が無い内容のものでも確認してしまう。リール動画はYouTubeのshort動画と何が違うのか分からないので見ていない。検索欄の投稿で気になるものだけチェックする。良く流れてくるのはバスケの投稿。部活に取り入れられそうな練習を探す。
「ごめんねおまたせ!コバセン毎回話長いよー」
聞き慣れた声に僕は顔を上げる。思わず頬が緩んでしまう。
「大丈夫だよー」
僕はスマホをポケットにしまって彼女の方へ歩み寄った。彼女と一緒にいられる時間が、この世で1番幸せなひとときだ。
「早く行こいこ!スタバの新作楽しみにしてたんだぁ」
彼女はにこにこと笑いながらスキップしそうなくらい軽い足取りで校門へ向かう。少し距離が離れてしまう。
ポスカで落書きしたスクバ、1年履き続けて少しくたびれたローファー、時間が経って巻きが緩くなった長い髪。
彼女の全てがあまりにも美しく見えて僕は目を細めた。
「ほらはやくぅー。プリも撮るから早くしないと遅くなっちゃう!!」
彼女が僕のカバンを引っ張る。
教室で2人お揃いの落書きをした僕のスクールバッグ。2人で遊んだ時に色違いで買ったピンクの大きなキーホルダーがスクバと共にゆらゆら揺れた。
「そんなに急がなくてもプリもスタバも逃げないよ」
彼女に追い付こうと少し走る。スカートが靡いて風が足の間を抜けていくのを感じる。
彼女の隣に追い付くと彼女は自分の腕を僕の腕に絡ませる。
「陽菜だーいすき!」
チクリと胸が痛む。ああ、この恋はきっと永遠に叶わない。
「私も大好きだよ」
心の底から言った。この子の隣にいると苦しくなる。それでも僕はこの場所を手放せない。
きっと明日も、僕は君と居られるこの時間を、あの銅像の前で待っているのだ。
静寂に包まれた部屋
とても静かだ。毎日頭を悩ませていた耳鳴りが、嘘のように無くなっている。
全ての障害が取り除かれた今、俺を止めるものは何も無い。
目を閉じて今までの人生を思い返す。なにかと上手くいかないものだった。
高校で打ち込んでいたバスケは、いきなり交通事故に巻き込まれ夢を絶たれた。続け様に父が倒れた。心臓発作だったらしい。妹と俺を養うには母1人では手が足りない。進学は諦め、就職したが上司と全く気が合わなかったが食っていくためにその職にしがみつくしかなかった。その頃からか、毎朝耳の奥で不快な音が鳴るようになった。
生活がようやく安定してきたところで、今度は母が倒れた。過労だったらしい。一命は取り留めたが、母は寝たきりになってしまった。
耳鳴りは眠る時以外鳴るようになった。
睡眠薬で無理矢理眠る生活だった。それでも生活は苦しかった。
俺一人ならまだしも、妹も食わせていかなくてはいけなかった。母の治療費も稼がなくてはいけない。
妹は頭が良かった。ちゃんと勉強して大学に入ってちゃんとした職に就いて欲しかった。もはや、妹だけが生き甲斐だった。
そんな妹が無事に大学に合格した。2人で泣くほど喜んだ。もう反応をしてくれない母にも報告した。
妹が就職してしばらくして、男を連れてきた。背が高く、どこか父に似ている気がした。結婚したいと考えていると、幸せにするから、家族として、俺と一緒に母と妹を支えていきたいと訴える真剣な眼差しに、俺は快くOKした。
式は挙げなかったが、フォトウェディングにすると言うとこで妹のウェディングドレスを見ることが出来ると聞き、とても嬉しかった。
やっと肩の荷が降りた。そう思った。
写真撮影に向かう途中、妹とその旦那は事故にあい、あっけなく死んでしまった。信じられなかった。
それからはほとんど覚えていない。
妹の葬儀をして、母を療養型の病院に入れて、部屋には俺一人だ。
ああ、上手くいかない人生だ。
とても静かで、耳鳴りが消えてることに気が付いた。
笑みがこぼれる。なんで笑ってるのかも分からない。
静寂に包まれた部屋で1人、俺は眠りについた。
別れ際に
「帰りたくない」
デートの帰り道、家の前で急に立ち止まって彼女が言った。横を見ると、彼女は困ったような顔をして微妙にはにかんでいた。
彼女がこんなこと言うなんて珍しい。少しの困惑と嬉しさが胸に渦巻き、応えるのに少し間が空いた。
「どうしたの?」
彼女は空中に目線を彷徨わせて、迷うような顔をした。
「帰りたくないの」
こんな返答も珍しい。彼女はいつも理路整然としていて、僕の疑問にいつも答えてくれる。
彼女はとても頭がいい。学校のテストも何回も1位を取っているくらいだ。僕は成績が良くないが彼女が教えてくれると、少し点数が上がったりした。
「でも」
僕も困った顔をした。
「もう夜遅いし、お母さんたちも心配するでしょ。」
彼女は黙って、少し俯いた。
「ちゃんと帰さないと、どんな男だって思われちゃう」
少しおちゃらけて雰囲気を明るくしようとしたが、彼女の表情は晴れなかった。
どうしたんだろう。こんなことは初めてで、どうしたらいいかわからなかった。なんせ、人と付き合ったのは彼女が初めてだ。
僕も少し迷って、彼女の頭に手を置いた。今日のために可愛く巻いて来てくれたらしい髪を崩さないように優しく撫でた。
彼女は下を向いたままだったが、口元から少し笑顔が覗く。
慣れないことをした恥ずかしさから顔が熱くなる。
「うん、帰るよ。」
彼女は顔を上げてそう言うと、周りをキョロキョロ見渡してから、素早く僕に顔を寄せた。
「ばいばい」
それだけ言うと彼女は小走りで家へ入って行った。
僕はしばらく動けなかった。別れ際に、とても甘い香りがした事しか思い出せなかった。
通り雨
暗くなってきた空を見上げて僕は思わず顔を顰めた。毎朝にこやかに話す気象予報士の当ては外れ、ぱらぱらと雨が降ってきた。傘を忘れた僕は早く帰路に着こうと早足になる。
こんなことばっかりだ。
今日は散々な日だった。行きの電車を1本逃し運動不足の体を引きずって走る羽目になった。出さなければいけない課題を忘れみんなの前で恥をかいた。模試の結果も思ったものでは無い。
進路希望の紙も僕だけ空っぽだ。みんな将来的への不安を吐いていても漠然と方向性は決まっている。なんならまだ高校2年生だと言うのに就きたい業種まで決まってる奴もいる。
脳内の嫌な感情を振り払うように、僕はさらに足を早めた。雨足も強まっていた。
僕だけ、何も、変わらない。
みんな、みんな、大人になりたくないなんて言ってるのにどんどん進んでいっている。ああ、嫌だ。未来のことなんて考えたくない。僕はまだ、大人になれない。やりたいことも見つからない。また、嫌な感情が、黒い雲のように膨らんでいく。何となく、今の空と似ている気がした。
いつも笑みを堪えている担任はトレードマークの困り眉をさらに八の字に歪めて言った。
「今が大事な時期なの。今決めておかないと将来苦労してしまうわよ?」
うるさい。うんざりだ。もう置いてかれたくない。
息が荒くなる。何も考えたくなくて、全力で走った。
数十メートル走って、すぐに息が上がって走れなくなった。情けなくて涙が出そうだった。
ふと空を見上げた。雨が上がっていた。通り雨だったようだ。気象予報士の晴れやかな笑顔が浮かぶ。
空までも変わってしまう。
僕だけ、何も、変わらない。
雨は止んで青空が覗いている。露を堪えた花々がきらりと光った。
カーブミラーに写った僕の姿は濡れたまま。
一瞬で変わった景色に、僕は全く追いつけないのだ。