『大好きな君に』
出会ったときは「なんで?」だった。
好きじゃないって言ったのに、と文句を言ったら叱られた。
それなのにわたしが世話をしろと言われたのは納得できなかった。
「この子にしたらお姉ちゃんみたいなものでしょ?」
それならお母さんたちは親みたいなものじゃない、とはもちろん言えなかった。
そこから付き合いが始まって、気が付いたら10年立っていた。
うっかりしたら潰してしまいそうだった身体は立派になって、健康そのもので元気も愛嬌もあるんだから出会ったほとんどの人は夢中になった。
もちろん、わたしもいつの間にかそうなっていた。
「おやあ、元気なわんちゃんだねえ」
今日も散歩しながらそう声をかけられた。
それがいまのわたしには誇らしかった。
「はい、大切な家族なんです」
『今日にさよなら』
個人的な記念日というものは、大なり小なり持っている。
それが殊更大切な日だったとしても他人から見たら「なんで?」となるものがほとんだし、ある日を境に自分にとってもなんでもない日に戻ることなんてのもよくある話だ。
「じゃあ、これで」
「うん」
素っ気ない言葉で立ち去った元彼女の後ろ姿を見ながら、今日が初デートの日だったことなんて彼女にすら意味がなかったんだな、と痛感させられる。
同時に自分にとってもそう、なれば良いのに。
「初デート兼別れた記念日はあんまりすぎだろ」
そんな日も寝て起きたら明日に変わる、とりあえずはそれで乗り切ろう。
そして、いつか「そんなことあったな」になってくれることを祈ろうと思う。
『10年後の私から届いた手紙』
タイムカプセルというのが流行ったことがある。
そう言っても大袈裟なものじゃない。
適当な缶に、例えばクラスメイトが好きなものを入れるだったり、私たちがこれから開けようとしているみたいに当時仲の良かった友だちだけですることもあった。
10年後も関係が変わらないと信じてたなんて、無邪気にも程があるけど、子どもだったからしかたない。
実際、今日集まったのは3人だけ。
残りの4人がいまなにをしてるのかも、誰も知らない。
「はい、これあんたの」
事務的に缶を開けて、宛名を確かめてふたりに渡す。
そして手元には自分が書いたもの。
なにを書いたのか覚えてないけど、他愛がないからこそいま見ると辛くなるものだったら嫌だな。
ここ最近の仕事プライベート両面を浮かべて「きっとあなたの希望は叶わないよ」とかつての自分に先に謝ってしまいたくなる。
開けるよと言ったわけでもないけど、ほぼ同時にみんな手紙を開いた。
浮かんだのは全員苦笑。
わたしもそうだった。
『10年後のわたしは、ちゃんとわたしが好きですか?』
なにこのませた子ども。こんな可愛くない子どもだったかな、わたし。
けれど、それは下手に将来の夢を書かれているより容赦がない。
わたしはまだ自分が好きだろうか。
嫌いまで言ってない、それで許してもらおう。
どうかな、許してくれないかもしれないけど事実だからしかたない。
「夢がないなあ」
そう言ってから残りのふたりに話をふると、そっちは子どもらしい夢が書かれていてそれはそれで困ったそうだ。
そんなふたりの結婚式を明日に控えた今日これを開けようと言ったのはわたし。
区切りがほしくて提案したけど、思った以上に自分には効果があった。
好きだったのがいつまでだったかは覚えてない、少なくとも友だち付き合いがあった相手に付き合ってると言われた時に「そっかあ」と返したときには冷えていたんだろう。
そこからもふたりと友だちとして付き合って、式にも参加するくらいにはふたりのことは好きだ。
たぶんわたしは自分よりも彼らが好きで、彼らみたいな『好意』とは無縁なんだろう。
そんな自覚はすこし前からあった気はする。
まあ、それなら。
誰も本気で好きになれないなら、自分のことくらいもう少しはすきになる努力はするか。
そう思って明日は忙しくなるふたりと一緒に独身最後のお祭りだーと飲みに行くことにした。