【ミッドナイト】
そこには、深い深い夜が横たわっている。
とても静かな、静けさが酷く煩いくらいの静寂に包まれて、あなたの寝息が小さく音を立ているのを、ぼんやりと眺めていた。
(ずっと一緒だったけど、もっとずっと傍に居られるんだ…。)
無防備な寝顔を見下ろして、くすりと笑う。
「…幸せ、だなぁ。」
嬉し過ぎてドキドキしたり、幸せ過ぎて息が詰まったり、心配し過ぎて怖くなったり、きっと今までと変わらない毎日が続いていく。
そこに、この人と同じ場所に帰る幸せが、追加されるのだ。
「はぁ…。幸せ過ぎて、溺れそう。」
これからは、お泊りではないのだ。この人が帰る場所に自分も帰って良いのだ。
「…かっちゃん。大好き、愛してる。」
深い眠りの中に沈んでいるあなたの耳元に、そっと囁く。
「うぐ、恥ずかしい…。」
長年の間に巫山戯て言い続けた言葉は、心を込めて言えずにいる言葉になってしまっていたのに、するりと漏れて出てきた。
「夜、怖い…。」
ごそごそと大好きなあなたの隣に潜り込んで、背中をむける。
これ以上向き合っていたら、もっと余計な事をして、隣で眠るこの人の眠りを妨げてしまう。
真夜中は、人を正直にする。
稚拙な欲望を露わにして、暴いていく。
溜め込み過ぎて零れ出す想いを、晒してしまう。
それらは、真夜中の闇に融け込んで揺蕩い、朝日に浄化される時を待つようだった。
【安心と不安】
大切な人が、安心して戻ってこれる場所になりたい。
不安な夜は、抱き締めて寄り添いたい。
そう想っていたのに―――。
あなたを待つ時間はいつだって、不安でたまらない気持ちが強くて、酷く掻き乱されている。
震える携帯のディスプレイには、あなたの名前。慌てて取り上げると、陽気に弾んだ声が聴こえてくる。
『かぁず〜、ご飯食べた〜?』
ご機嫌な声が、少し舌足らずに尋ねてくる。
「うん、食べたよ。かっちゃんは、美味しい物たくさん食べた?帰ってきたら、教えてね。」
千鳥足になっていないだろうか、帰る方向と反対に行っていないだろうか、ちゃんとココまで辿り着けるだろうか、迎えに行ってしまおうか―――。
『うん、お腹いっぱい!』
不安な想いが詰まって渋滞している。
「かっちゃん、お酒呑んだでしょ?眠たくなる前に戻らないと、帰ってこられなくなっちゃうよ。」
上手く言葉を選べているだろうか。また不安になる。
『ん〜、駅着いた。ちゃんと帰ってきたからな〜!えらいだろぉ!』
慌てて上着を引っ掴んで、家とバイクの鍵を握り締めた。携帯を操作してイヤホンマイクに切り替える。
「偉いなぁ、流石かっちゃんだね!」
戸締まりをして、ヘルメットを被ってからバイクを動かす。
少しでも早く会って、抱き締めて安心したくて。
暗い夜道へと、大切な人を探しに家を出た。
【逆光】
太陽の光を遮る雨戸を開ける音がする。
開け放たれた窓から、目が眩むほどの眩しい光が射し込む。
「わぁ、良い天気!…起きて、かっちゃん!目茶苦茶良い天気だよ〜?」
元気な声が弾んでいるのが、頭に響く。
「ありゃ、ごめん…。かっちゃん、朝苦手なんだよね。」
瞑った目の奥まで突き射さるような明るい陽光から、逃れるように寝具へと顔を埋める。
「…ね、かっちゃん?朝ご飯、何が良い?」
枕元に顔を寄せて、耳元を嬉しそうに潜めた声が擽っていく。
「…ぅう、ん。」
とろとろと微睡みそうになる思考を手繰り寄せようとするけれど、少しもまとまらない。
「うどんはないけど、炊きたての白いご飯と厚切りの食パンがあるよ。おかずは、卵使いたくて、納豆と味付け海苔があって、ベーコンとウィンナーがあって、大盛り野菜のおつゆ作ってるんだけど、味が決まらなくって…。でも、もう少しで出来上がります。」
もどかしくベッドに溺れている身体に、歌うように朝食をアナウンスする声が沁みていく。
「…ぱ、ん。ベー、コ…。」
がっさがさに掠れ切った寝起きの酷い声が、喉の奥から絞り出てきた。
「お、パンとベーコンね!じゃあ、クロック・マダムだかムッシュだかにしよう!パンはトーストかそのままか。あと、卵の焼き具合もリクエストあったら、教えてね。」
ごそごそと起き上がる為に体を動かしていると、陽射しが急に遮られた。
「さぁ、体起こそ?いくよ、かっちゃん。せーのっ、ほい!」
ひょいと抱き上げられる様に、視界が揺れてベッドの上に座り込んでいた。
「かず、ま…?」
後ろを振り返ると、背中に光源を隠した人影が、こちらを見下ろしているらしい。
「おはよう、かっちゃん。和真くんですよ。分かる〜?まだ、眠いね。顔洗いに行けそう?洗面器、持って来ようか?」
ぼんやり具合が、心配を誘ったようだ。
「いい…。おり、る。」
逆光で良く見えない表情とは別に、心配そうな声が心地良く響くので、またウトウトと微睡みそうになる。
「顔洗って、落ち着いたら、もっかい相談するね。ゆっくり決めてね。待ってるから。」
軽く頷いて、のそのそとベッドから床へ足を降ろす。
「ちょっとコンソメの素入れて、スープの火だけ止めてくるね。すぐ戻るから、待っててね!階段、独りで降りないでよ?」
バタバタと忙しい足音が去っていく。
「…ふぁ、起きた。あと、じゅん、び。」
ゆらゆらと揺れながら瞬きを繰り返して、瞼を持ち上げる。
振り返った窓辺にはレースのカーテンが掛かっていて、穏やかな陽射しが陽だまりを作っていた。
「良い、天気。…良い、匂い。」
階下から上がってくる美味しそうな香りに釣られて、お腹が盛大に鳴った。
ゆっくりと立ち上がって、背筋を伸ばす。
今日は、ふたりで何をしよう。
【こんな夢を見た】
妙に現実味のある夢を見た日。
嬉しいような悲しいような、不思議な心持ちになったのを憶えている。
理由もなく溢れてくるものが止められなくて、困惑したのも鮮明に覚えている。
『誤魔化すな。直視しろ。』
逃げ廻っていた現実から、目を背けるなと言われているようでもあった。
「勝算、薄いなぁ…。」
端から見れば、どうということもない事象かもしれないが、やはりハードルは高いように思えた。
これは、叶わない想いが見せた現実逃避に似た甘い夢なのか、叶わない想いを遂げたい欲が浮上した浅はかな想いなのか―――。
「そもそもが無理だろ、アイツは。」
仲が良い故に知っている相手の恋愛観からして、無理筋なのは確実である。
「完全に墓まで持ち込みなんだよ…。」
自分でも、愚かしい話だと思っているのに、何処までも想いはままならない。
もしも、タイムマシーンがあったら?
夢のような夢物語。そう思っていた。
実際に起きたら、こんなに過酷だなんて思わなかった。
異世界にでも飛ばされたのかと思う程、同じ国の筈なのに聴き取れない言葉。
書いても通じず、話は理解されず、細かいニュアンスは伝わらない。
困惑が目の前に壁を作っていて、超えられない。
奇異の目を向けられたら最後、忌避する冷たい視線が刺さって、拒絶される。
「妖しか、物怪の類か?くわばら、くわばら。」
何とか聴き取れたのは、やはり拒絶だ。
誰も知らない場所で、独り取り残されたまま、呆然と途方に暮れるしかなかった。
居竦んだまま立ち尽くす。
足元をじっと見詰めていたら、大きな影がかかった。
「付いて来い。」
手を差し伸べるでもなく、抑揚のない声が頭上から降ってきて、すぐ脇を体格の良い人影が通り過ぎて行く。
「えっ!?わぁ、待って!」
大きな背中を急いで追い掛けた。
見知らぬ土地の見知らぬ人の背中を追い掛ける決断。
さて、吉と出るか、凶と出るか―――。
《タイムマシーン》
異世界転生もどき。
過去にタイムスリップしちゃう系の話に出て来る、モブちゃん現地到着の導入部分。