3月26日
ちいさな手で、だけれども力強くあなたは私の指を掴んだ。
3月27日
なく声は、その体の何倍も大きい。
3月28日
ずっとないている。力いっぱい。あなたがなにを欲しているのかまるで分からない。
3月29日
2ヶ月。あなたの月齢よ。もっと長い時間を共にしたと思ったのだけれど、あまり経っていないのね。
3月1日
もう何日もまともに寝ていない。あなたも、私も。
3月2日
ひどく眠たい。きっとあなたもそうでしょ。
3月3日
一緒に寝ましょう。お母さんも一緒よ。おやすみなさい。
数年前、職場恋愛の末にカナミと同棲を始めた。
カナミはすこしおっとりした性格で、でもそれがかわいかった。
「今日はカラッと晴れて、いい洗濯日和だね」
カナミに微笑みかける。
「昨日買ったお肉で夜はビーフシチューにしよっか」
カナミと話すときにはいつもとびきりの笑顔を用意する。
「すっごくおいしいワイン見つけてさ、はやく一緒にのみたいな」
だってカナミが大好きだから。
洗濯機に洗剤を入れて、リビングに戻る。
──ほらカナミはかわいい。
冷蔵庫の横、チェストのすぐそば、ダイニングチェア、そしてあらゆる扉に、カナミが佇んでいる──そう見えるように用意した、無数の写真。
「カナミ、ずっと一緒にいようね」
ピピッと軽快な音楽を鳴らし、洗濯機が作業の終わりをしらせる。
洗濯物をカゴに入れ、ベランダへ出ると背中がぐっと伸びるような晴天がそこにあった。
──向かい合わせになるよう、二枚のTシャツをそれぞれハンガーにかけた。ずっと一緒。ずっと一緒。
「不良品になった子どもはかわいいか」
きのう両親に言ったこと。
「お前の足、粉々に砕かれたくなかったらさっさと失せろ」
これは弟にだ。
「誰かわからない、はやく帰ってくれ」
担任教師、友だちだと名乗る数人の男女、あとは親戚だとか自分の人生に関わっているという人たちにはそう言った。
「すきにしてくれ、全部任せる」
最後に、私を担当すると言っていた弁護士。
好き放題黒いものを吐き散らかしても、まだ内側がもやもやする。
──冷たく無機質なコンクリートの巨大な箱。
何人もの自由の効かない人たちが収容されている。
自分もそのうちのひとりだ。
入浴、排泄、食事にいたるまで自由は許されなかった。
受け入れられない気持ちがどれほど強くても、現状を拒否する自由さえないのだ。
おかしくなりそうだった。
親も弟も何もかもを遠ざけ、自分と彼らは全くの他人だと思い込むのが一番マシだ。
ここへは誰も来なくていい。胸を掻きむしって取り出したいほどの苦悩に耐えるくらいなら、孤独のほうがずっといい。
だけど、そんな思いとは裏腹に、明るい声がした。
「あなたが赤ちゃんだった頃を思い出して、私は可愛く思うわ」
母だ。
母の声。
ちょっと前までこの声がだいすきだった。
今ではこんなにも憎い。
憎いと思う自分もひどく……。
「おしめだって私が替えてあげるのに」
母はベッドに転がるだけの私に言った。
「まあそれは退院したらね、お母さんに任せてね」
暗く深い海へと。
砂浜。
ゆらゆらと揺れる端切れの波。
足を波が触れる。
端切れのくせにゆったり楽しむように何度も波を踊らせる。
私はそんな気分じゃないのに、こっちへおいでと呼ばれてしまう。
ざりざりと砂に埋もれて温められた足がふいに波に触る。
冷たい。端切れで、冷たいお前は出来損ないだろう。
どうしてそんなに楽しそうでいられるんだと無性に腹が立った。
私は声を喉から射るように出して、海に向かっていった。
暗い黒い暗い海は、私が叫べば叫ぶほど、嘲笑うように声を高くした。
とうとう私の足は砂を捉えられなくなり、体は海の腹に放り出される。
私は出来損ないかもしれない。
でも海だって出来損ないだ。
何が違うんだ。
私と海。
海。
海。
暗い。
意識が。
海。