NoName

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7/6/2025, 7:52:29 AM


「うーん、聞こえない」
「そりゃそうだよ」
 耳の横に丸く手を当てていた彼女が振り返った。
「そろそろ行かない?」
「待って! 私がやるから!」
 両手を前に出して、懇願するように目で訴える。そこまでこだわる意味もわからないし……それに、一体なにを「やる」というのか。せせらぎが聞こえていない状態で沢を見つけるなんて、不可能に近いのに。ため息をこぼしながらそのようすを見守っていると、彼女が地面から比較的まっすぐな木の枝を取り上げた。……なるほど。
「頼むよー……」
 その端を、土の地面にそっと立てる。彼女の指先を離れた枝が、南西方向を指し示した。
「こっち!」
「……」
 真逆だ、と、伝えてもいいだろうか。

7/2/2025, 7:49:30 AM

「ここだけ四季がないみたいなの、不思議」
 木々の隙間から覗く青い空を見上げる。雨林には、季節の移り変わりというのがほぼほぼ存在しない。晴れて、曇って、雨が降る。一日の中に、それが凝縮されている。
「気になる?」
「ん? ああ、そういう意味じゃなくて」
 大きな耳をピンと立てて、ティナリが私の声を拾う。広げてもらったピクニックシートの端を押さえるようにして、ブーツを脱いだ。リュックから出すのは、お弁当。せっかくオフに出かけるのならと、ピタよりは、ちょっと豪華なものにした。フォークを差し出すと、ティナリが「ありがとう」と言う。
「ここに来れば、いつでも同じ景色があるから、安心する」
 私の言葉に、彼が優しく微笑んだ。
「いつでも遊びに来て」
 その笑みが、あんまり優しかったから、ちょっと、ちょっとだけ、意地悪したくなって。
「……毎日来たらどうする?」
 わざと、気まずい時間を作ってやろうと思った。曖昧なやり取りは、あんまり好きじゃない。時間の無駄も、好きじゃない。駆け引き、みたいなのは。
 ティナリが首の後ろを掻いたのが、気配でわかった。困らせてるって、わかっていた。だって彼もきっと、遠回しなやり方は、好きじゃないタイプだ。中くらいの静寂を打ち破るように、とぷん、と、池でなにかの跳ねた。それで、ティナリが顔を上げた。
「……住めば?」
「え?」
「毎日来るくらいなら」
 なんでもないような顔でそんなふうに言うから、思わず面食らった。だって私はシティで仕事があって、家族がいて、都会暮らしに慣れていて。そんなの、現実的じゃない。それなのに、ティナリは、なんでもないような顔で。
「……」
 負けた。私のほうがずっと、彼のことが好きなのだ。今、はっきりと自覚した。そしてこういうのは、負けたほうが、負けなのだ。
「……いつかね」
 たぶん、近いうちに。






7/1/2025, 7:05:43 AM

「……なんで開けるの」
 突然照らした光から逃れるように顔を背けて、ブランケットを被った。四つ足の動物みたいに両手を付く犯人の気配を感じる。
「まさか、起きないの?」
 「もう朝だよ」。言いながら、その人も私の隣に寝転んだ。布の隙間から、明るい緑の差し毛が見える。ティナリは、早起きだ。森と同じ。それにまだついていけない私は、そっと彼の袖を摘んだ。
「起きちゃうの?」
「……」
 浅い沈黙が降りて、その間、ティナリはちょっと考えるように首を傾げた。そして短い逡巡を終えると立ち上がり、再び窓に近付いた。
「閉めるの?」
 私の問いかけに振り向く。そしてひとつだけ頷くと、小さく微笑んでカーテンを引いた。戻ってきて、私の体を覆っているブランケットを半分だけ開けて、そこに体を滑り込ませる。
「君がいるなら、僕もここにいようかな」
 嗚呼、せっかくの休日が。あなたと一緒に溶けていく。