♯軌跡
新天地で大学生活を始めるため、実家の部屋を整理していると、押し入れの奥からアルバムらしきものを見つけた。
私は手に取って矯めつ眇めつ眺める。表紙には達筆な字で『軌跡』とあった。
これ、小学校の卒業文集だ――。
次の瞬間、地中深くに埋めて見えないようにしていたものが、炎の柱とともに激しく噴き上がる。
私は触れるもおぞましいそれを叩きつけていた。――捨てる物、とマジックで乱雑に書かれたダンボールの中へ。
♯好きになれない、嫌いになれない
わたしにはライバルがいる。
違う小学校からきた、隣のクラスの、同じ吹奏楽部でサックスを吹いている女の子――美嶋さん。
わたしと一緒で初心者のはずなのに、美嶋さんは上手くなるのがうんと早い。そしてパートリーダーの石井先輩にとても可愛がられている。石井先輩はわたし以上に美嶋さんに目をかけている、期待をしている……けど、これは、わたしが勝手にそう思い込んでいるだけだ。石井先輩に差別をしているつもりはないのだろうし、それで美嶋さんがわたしをバカにしてくることもない――あの子は『いい子』だから。
でも、わたしは美嶋さんを好きになれない。
……けど、わたしは美嶋さんを嫌いになれない。
そんな複雑な思いを抱えたまま、日々の部活動は続いていた。季節は変わり、今度の演奏会では、わたしが2ndアルトのパートを担当することになった。2ndアルトは石井先輩の1stアルトに対し、ハーモニーやメロディの補完といった役割を持っている。対旋律とハモりで1stアルトを支えたり、曲によっては1stアルトと同じように目立てたりできる、石井先輩により近いパートだ。これはわたしの日々の頑張りが認められたからでも、石井先輩がわたしをヒイキしてくれたからでもない。不公平がないように、美嶋さんと交互に2ndアルトのパートを受け持っているだけ。それでも、わたしは昼休みを返上して練習に打ち込んだ。今度の演奏会で発表する曲はとても難しい。時間はあってもあっても足りない。石井先輩が引退したら、わたしがパートリーダーになって1stアルトを引き継ぐんだ。こんなところでつまずいちゃいられない。
そんなある日のこと。突然、美嶋さんが昼休みの音楽室にやってきた。
わたしは思わずマウスピースから口を離す。
美嶋さんは申し訳なさそうに笑って、
「邪魔しちゃってごめんね、わたしも一緒に練習していい?」
どういう風の吹き回しだろうと怪しみながら、わたしはぎこちなく頷いた。
「……いいけど」
美嶋さんの目がパッと輝く。
「ありがとう! 今度の曲、難しいよね」
「うん……」
美嶋さんはテナーの担当だ。メロディに関わらない、花形からは遠いパート。
「でも、美嶋さんは、もう完璧じゃん」
卑屈な響きにならないように気をつけながら、わたしはからかい混じりに言う。
美嶋さんは驚いたように目を見開いて、それから曖昧に笑った。
「けど、合わせると何だか違うなあっていつも感じるの。杉村さんが昼休みでも練習してるって聞いたとき、このままじゃ置いていかれるかもって、わたし、焦っちゃって、それで……」
急に口ごもり、どこか迷うようにしながら目を伏せる。わずかの後、おずおずと上目遣いに見てきた。
「……それで、できたら、で、いいんだけど……練習に付き合ってほしいなあ、なんて……だめかな?」
その瞬間、わたしの心は敗北感でいっぱいになる。
……あーあ、こういうところがあるから、嫌いになれないんだよなあ。
♯夜が明けた。
群青の空に沈みゆく月。カーテンの隙間からは朝の光が差し込み、少しずつ赤みを増していく陽射しが、ほんのりと甘みを含んだ夜の匂いと部屋の中に満ちた闇を洗い流していく。
僕は部屋のすみっこで膝を抱えて見守っている。ベッドにまっすぐと横たわる彼女を。早く目を覚まして。何事もなかったみたいに笑って「おはよう」と言って。僕はそう必死に祈り続ける。刻一刻と近づく夜明けに気が狂いそうになりながら。
先ほどまで彼女は生きていたのだ。静かに降りそそぐ青い光の下で、幸せそうに眠っていたのだ。花びらが舞い降りたように閉じた瞼を、なめらかな丸みを帯びた頬を、ふっくらと色艶めいた唇を、たしかに僕はこの目で見たのだ。
その彼女が、夜明けとともにゆっくりと死んでいく。重石のように固い瞼、のっぺりとした白い頬、干からびてカサついた唇――細い首についた引っ掻き傷と、赤黒い指の跡。
神々しいまでの金赤の光が、僕の罪を白日の下に晒そうとしていた。
♯ふとした瞬間
ふとした瞬間、お前は俺の知らない表情をする。
そのたびに、お前は俺の本当の子どもじゃないんだって突きつけられるんだ。
♯どんなに離れていても
心が繋がっているから大丈夫、そう思っていた。
その心さえ繋がっていなかったなんて、思いもしなかった。