ほんの少し近づいただけ。
わかっている。
それでも、不意に包まれた彼の匂いと、
直接触れずとも感じる体温に
どうしても胸が高まってしまう。
もう少し、触れてみたい。
もう少し、そばに居たい。
そんな思いが膨れてゆく。
膨れた思いの核はせり上がり、
喉の奥まで上り詰める。
「もうすこし」
そう言いたいのに、上った思いが息を裂く。
か細い糸のような声は、彼の耳に入る前に、
溶けるように切れて、聞こえない。
だから、神さま、もう少し。
もう少しだけ、私を彼に、近づけて。
「胸が高まる」
泣いたりなんて、しませんよ。
どれだけ辛く、恐ろしい場所に居ようとも
あなたは生きているのでしょう?
泣いたりなんて、しませんよ。
いつか帰ってくるあなたを信じて
笑顔を絶やさず生きていくから。
泣いたりなんて、しませんよ。
優しく大きなあなたの背中が
小さな箱に収まって
何一つ喋らぬ人になったとしても
泣いたりなんて、しませんよ。
だから大丈夫。
私のことは何も心配しないで
ただあなたのやらねばならないことを果たしてきて。
「泣かないよ」
私はいつも
恐れている。
もし、彼が
私に出会わなかったなら、
彼は幸せだったかと。
不幸にならなかったのかもなど。
彼を悲しませることは
何一つない、
美しく、
優しい人がいるのに、と。
そんなこと考えた夜は、
月の光が刺すように痛い。
私の恐れに賛同しているのか
そんな事言うんじゃないと怒っているのか。
どちらなのかなど知る由もない。
彼の寝顔がまた、私の胸を締め付ける。
こんなにも優しい。
こんなにも美しい。
そんな人。
私には到底釣り合わない人。
彼はこんなにも美しい。
こんなにも穏やかな月光に照らされて。
あぁ、月の光がびりびりと痛い。
こんなにも痛い激しい月の矢に刺されて。
落とした涙の歪な丸
彼が美しい月ならば
私は醜い涙の跡。
早く乾いて消えたいわ。
優しい光に照らされて。
「怖がり」
過ぎ去った日々を思い返す
隣にいた貴方の、頬の赤み
隣にいた貴方の、深いため息
過ぎ去った日々を思い返す
隣にいた貴方の、石鹸の匂い
隣にいた貴方の、確かな体温
過ぎ去った日々を思い返す
隣にいた貴方の、立ち上がる瞬間
扉の向こうの、貴方の気配
そしてまた、過ぎ去った日々を思い返す
思いの外広い、一つの部屋
一人では冷たい、部屋の中
過ぎ去った日々を思い返す
過ぎ去った日々を思い返した、あの日
過ぎ去った日々を思い返した、その日
過ぎ去った日々を思い返す
大好きな貴方が、確かにここにいた日々を。
そして、来るのであろう未来に思いを馳せる
大好きな貴方が、確かにここにいる日々を。
「過ぎ去った日々」
月夜
これでもかという程に金色に輝く月
貴方の希望
月夜
雲から光をもらす月
暗闇に照らされた夢
月夜
貴方を照らす月
私の愛
月夜
何も見えない新月の月夜
断ち切られた赤い糸
月夜
まろやかな形を成して霞む月夜
潤んだ瞳
「月夜」