ダンタリオン

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8/12/2023, 4:00:39 PM

『君の奏でる音楽』

「お疲れ〜!はいっ、乾杯、かんぱーい!」

ガチャン、とグラスが雑に触れた。グラス同士の衝撃が指から伝って、脳みそを襲ったみたいに少し惚けてしまう。その衝撃は私だけじゃなく、グラスの中の氷もカラコロと揺らした。グラスの汗が私の指先に小さな水たまりを作ったが、すぐに決壊してまた滑り落ちる。

「いやぁっ、俺ね、ずっと見てたんだけど、マジファンになっちゃった!」

突如グラスを掲げ近付いてきた男が酒を煽って、一息つくように放たれた二言目は、想定外の褒め言葉で面食らう。見てくれの軽薄さ通りの言葉選びとも思った。感嘆詞の力強さにビクついた私を、遠くから気遣うように見るメンバーに、気にしないでとアイコンタクトを取った。

何度か同じ企画に参加していたバンドから、社会人バンドを集めて内々に好きな曲をやろうと誘いがあり、二つ返事で参加した。案の定見知った面子ばかりだったが、この男のバンドとは初めてだった。メンバーが心配したのは、それが理由だろう。
二枚目を揃えたような、吹けば飛ぶような輩の集まりにも見えた。だから、どんなものかと穿っていたのに、聞いていくうちに嫌な色眼鏡も色覚を失っていった。

演奏が終わり明るくなったライブハウスの客席で、グラスやジョッキを持った男女が、和やかに閑談している。壁にもたれ掛かる人、小さな丸テーブルに集まる人、床に座り込む人。秩序や統一性はない。
それなのに、顔見知りのバンドマン達や馴染みのファンはみんな、さっきまでの情熱を手放して、社会に疲れた大人の顔に戻っていた。

「ありがとう。2曲目、好きだった。」

言葉少なく、感想を伝える。それしか言えない自分を恥じる気持ちはない。ただ、この男が作ったらしい曲への感情は、恐らく二十分の一だって届いていないだろう。それは、勿体ないことかもしれないとは思った。

「イントロのギターリフ。」

それだけ言って目を見た。話すのは得意ではない。伝える言葉を考えるのが面倒だからだ。それに、言葉で補わなくても、平気なこともある。

思えば、話すことを面倒くさがるのは、随分と前からだった。
11歳の夏、同じクラスの同級生たちがウサギ小屋に座り込んで、亡骸を代わる代わる抱いたり、漏れそうな嗚咽を唇を噛んで抑えたり、温もりも冷めた寝床を見つめたりしながら、色んな顔で泣いていた。私は、強烈に刺すような目をしている小動物を、一度も名前で呼ばなかった。情が湧いたら嫌だった。だからずっと避けていた。案の定、私一人だけはどんなに時間が経っても泣けなかった。

みんな泣いてじっとしていたが、とうとう観念したように、埋葬してあげようと声が上がった。私が、焼いてあげないとダメだと言うと、みんな信じられないものを見るような目で私を見た。たったそれだけで、私のこの後悔も虚しさも、何故焼いてあげないといけないのかも、話しても誰にも伝わらない気がして、もう説明する気にならなかった。
そして、だんまりを決め込んだ。幼かったからだ。

その後の数ヶ月は、みんなの中で私は無情な化け物になったみたいだった。あの小動物を避けた私みたいに、触れなければ大丈夫と繰り返す目に、何故か納得してしまって、教室の隅っこで丸まって、パーカーのフードを被って巣ごもりをした。頭の中で何度も、大きくてギョロッとして、幾度と私を刺したビー玉みたいな黒目が思い浮かんだ。
まぁるいまぁるい、私だけのナイフ。

「うそ、マジで?!えー、マジか。めちゃくちゃ嬉しいわ。」

私の短い褒め言葉にはしゃぐ男の目も、ビー玉みたいに大きい。表情が変わるたび目線はころころと変わるのに、何故かずっと目が合っている気がした。私はまた避けるべきだと思った。私を刺すナイフになるんじゃないか。

「また一緒にやれたらいいな。」

心がびりりと震えた。私は今、この男が小さく呟いた言葉を、とても喜ばしいと思っている。それが分かった途端に、避けるべきだという自分の直感の正しさを感じた。一度懐に入れてしまえば、きっと執着してしまうだろう。それが分かっていながら私は、避けなければいけないという恐怖よりも、顔を突き合わせて話せる時間を失ってしまう方が、言い表せない不快さに襲われる気がした。

小動物にもこの男にも感じていたのは、その目が私を刺した後の自分がどうなってしまうのか分からない恐怖と、近付いてはいけないという自分への戒め。
そして、この男にだけ感じているのは、自我を持つ独占欲だ。有り体に言えば、どう頑張っても私だけのものにはならないと分かっていながら、縛ってしまいたいという欲求の傲慢さを、この男の前では我慢が出来ないということだった。

「やれたら、じゃなくて、やろう。貴方の曲、好きだから。」

当然だと言わんばかりの物言いができただろうか。男は目を見開き、私の顔を少しだけ見つめた。照れているような、困惑のような、それでいて今にも泣きそうな、不思議な顔をしていた。でもその顔は、二秒と経たずにいなくなり、さっきの軽薄そうな笑顔と打って変わった、はにかみ顔になる。

「告白みたいだな。なんか、すげえ照れるね。」

その顔を見ながら、思った。
この男の目が私を刺すなら、いっそそのナイフを持って私が振りかぶってしまおう。はなから口下手だから、喋れなくなってしまってもいい。その目に刺されると喜びで動悸がしてしまうから、見えなくなってしまってもいい。耳さえ残っていれば、私はこの男の作る音楽を聞くことが出来る。

この男の目は、まぁるいまぁるい、私だけのナイフだ。

-まるいナイフ-

8/7/2023, 7:25:49 PM

『最初から決まっていた』

本当にツイてない。今日はもう、本当に、本っ当にツイてない。
待ち合わせに遅れてしまったのに、謝罪もせず、開口一番そう叫ぶ私を、生暖かい目で見る友人に抱きついた。

繁忙期、無理矢理こじ開けた休みだったのだ、今日は。抱きついた私の背中を優しく撫でる、この友人と会うための休みだった。

前日から"ツイてない"の前兆はあった。
もうとにかくクレームの嵐で、対応に追われ、休憩も取らずに働いて、結局残業してしまった。帰ったら日付が変わっていた。

風呂に入って部屋に戻った瞬間に寝落ちした。疲れていたから。でもアラームはついていた。必死にスマホをまさぐって何とかつけたのだ。
なのに、なのにアラームってやつは、鳴ってくれなかった!

聞こえなかったわけじゃない。充電器ケーブルが何故か断線していた。昨夜寝る前は繋がっていたのに!私の寝相のせいか?何かに引っかけたのか?蓄積ダメージで不意に?
でもそんなことを考えている場合ではなかった。とにかく、充電をして遅れてしまうと伝えなければ。何せ何時なのかも分からない。デジタルに侵された人間だから、アナログ時計は持っていなかった。

奥からコードを引っ張り出し、1週間前から悩みに悩んで決めた服を着て、化粧もヘアセットも終わらせた。冷や汗をかきながら確認したスマホの中には、待ち合わせぴったり11:00の表記。
これには絶句した。待たせてしまう申し訳なさと、会う時間が減ることへの悔しさがどっと押し寄せた。

トークアプリから悠にチャットを送るため、スマホは軽快なタッチ音を鳴らす。既読はすぐについて、大丈夫のスタンプ。大丈夫といったら、大丈夫な奴なのだ。本当に大丈夫だと思ってるような奴なのだ。これ以上謝っても時間は縮まらない。急いでスマホをバックに放り込み、足早に家を飛び出した。

必死に走ったというのに、家の最寄り駅に着いてまた愕然とした。
今度は待ち合わせの駅まで、電車が遅延している。腹が立って仕方がなかった。何に対しての苛立ちかも分からなかったが、地団駄を踏んで暴れ散らかしたい気分になった。私は今すぐ悠に会いたいのに!

結局、悠と会えたのは待ち合わせから1時間が経っていた。
溜息混じりにこぼすと、悠が笑う。

「早く会いたいって思ってくれただけで嬉しいよ。」

私は、柔らかく結ばれた三つ編みに頬擦りするようにくっついた。

「それに、ちょうどよかったの。」

そう言うので、不思議に思った。それが顔に出ていて、恐らく間抜けな顔をしていたんだろう。悠は淑やかに笑った。

「昇進祝いに連れてくって言ってたお店、1時間間違えて予約しちゃってたみたい。お店に連絡したら言われたの、12時半だったんだって。今から行けばちょうどよ。」

ちょっとだけおっちょこちょいな悠のことだ、これはきっと本当のことだろう。
それに読みたかった本も今読み終わったところなの。悪戯っぽく笑って言ったこれは、優しい嘘だ。
だってさっき、本の真ん中に栞をさしていた。

「結果オーライってことか!」

でも、信じたことにしよう。

「そうだよ。さすが優子ちゃん。」

笑う悠の手を取って、歩き出す。
出会ったあの時から、決まっていたんだろう。
今日私が遅刻してしまうことも、悠と私ではずっと一緒にいられないことも、友達の振りをして手を繋ぐ中にそれ以上の情があることも。

それでも、悠が、他の誰かと結婚することも。

今日会う前から、風の噂で聞いていた。いつもと違う表情をしていた。悠が私に話すならきっと今日だ。
遅れてやってきたことを、悲しむような安堵したような気にしてないような、感情の綯い交ぜになった顔をしていた。

出会ったあの時に、私は決めたのだ。
どんな終わりになろうとも、どんな決断をされようとも、私だけは。
ふらっと消えてしまいそうな悠を、私と同じ地面に立って歩く生き物であるように繋ぎ止める、枷になると。

手に力を込めた。
それに気付いた悠が、泣きそうな顔をした。

6/1/2023, 7:01:19 PM

梅雨が、やってくる。

毎年鬱々とした気持ちになるこの季節に、もうそろそろ嫌気が差していた。
髪はうねるし、お気に入りの服は汚れるし、迂闊に日向ぼっこも出来ない。傘は必須だし、寒いんだか暑いんだか分からないから、カーディガンが手放せなくて荷物も増える。

「傘、持ってるんですか。」

地鳴りのような低い音色は、背格好が山のような男から発せられていた。
いつの間に近くに来ていたのか、その距離は近く、真横にいるくせに視線は空模様にだけ集中している。

「えぇ、忘れちゃったんですか?」

「そうみたいで。いつもは持ってきているんですが…」

聞いてもいない言い訳を、少し照れくさそうに話す。大きな体の割に物言いは柔らかい。その見た目で損をしたこともままあるだろうと、余計なお節介が頭を過ぎる。
顔は優しげだが、あまりの背の高さに、そもそもその表情が見えないといった具合だ。この男の人好きを考えると、過ぎるものもあるものだ。

「送ってあげましょうか。」

何の気なしに言ってみたものの、この時期だ、持ってる傘は折り畳みだし、私の身長では彼を守れず、彼を守るなら私は相当雨に振られることは請け負いだった。
同じことを考えたのだろう、彼の目が見開かれた。とんでもないという風に、首をぶんぶんと横に振る。
既に雨の中を走ってきたのか?まるで水分を吸収しきった犬が身震いしたみたいだ。

「傘を、借りてもいいですか。ビニール傘を買ってきます。」

はて、と考える。私たちの背には、既に終業し閉まってしまった会社の扉しかなく、悲しいかなこの辺りに暖まれるような場所もない。
コンビニに買いに行くくらいの時間なら待つことも吝かではないが、何となくそれも勿体ない気がした。

「じゃあこうしましょう。コンビニまでは送ります。そうしたら、傘を買ってください。」

譲る気のない私に気付いた彼は、鞄を手前に抱きかかえ、ぎゅっと縮こまった。
私は何だかんだこの男の挙動が好きなのだ。だから、こんな大雨の中この男を送るなんて発言をしてしまう。
180cmを優に超える大男のくせして、無邪気で大人しい幼稚園児のような素直さ。今も無理やり中腰で、私が濡れないようにしようと必死だ。
それを見て少し、可愛がりの気持ちが芽ばえる。私は大概意地が悪いのかもしれない。

「もし貴方が濡れたら、タオル、買ってきます。」

「分かりました。じゃあ、行きましょうか。」

辿り着いた頃には案の定、雨に降られ濡れていた。だが、彼の気遣いを感じさせる程度には収まっていたし、誰がどう見たって、彼の方がよっぽど濡れていた。

「…しまったな、やっぱり濡れてる。待っててください。」

彼は焦ったようにコンビニに駆けていった。私も中に入ってしまおうかと思ったが、冷やかしになるのも面倒なので、外で待つことにする。
傘に跳ね返される雨の音を聞いていると、何を考えていても全て吸収されてしまう。思考が定まらない。全く今日の夕飯が決まらない始末だ。
あぁ、冷蔵庫の中には何が入っていたっけ…。

「お待たせしました。これ、あの、タオル…」

おずおずと差し出されたそれを受け取り、濡れてしまった彼の髪を拭いてやる。

「な、先に腕とか、ほら肩も、冷えちゃいますよ。」

慌てたように彼が私からタオルを奪い取り、私の肩にそっと当てた。

「今日、寒いですよね。」

「え、えぇ。だから、早く拭かないと風邪引いちゃいますよ。」

幸いなことに、冷蔵庫は空っぽだった。

「お鍋、食べに行きましょう。」

梅雨が、やってきた。
今年の梅雨は、悪くないかもしれない。