ダンタリオン

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『君の奏でる音楽』

「お疲れ〜!はいっ、乾杯、かんぱーい!」

ガチャン、とグラスが雑に触れた。グラス同士の衝撃が指から伝って、脳みそを襲ったみたいに少し惚けてしまう。その衝撃は私だけじゃなく、グラスの中の氷もカラコロと揺らした。グラスの汗が私の指先に小さな水たまりを作ったが、すぐに決壊してまた滑り落ちる。

「いやぁっ、俺ね、ずっと見てたんだけど、マジファンになっちゃった!」

突如グラスを掲げ近付いてきた男が酒を煽って、一息つくように放たれた二言目は、想定外の褒め言葉で面食らう。見てくれの軽薄さ通りの言葉選びとも思った。感嘆詞の力強さにビクついた私を、遠くから気遣うように見るメンバーに、気にしないでとアイコンタクトを取った。

何度か同じ企画に参加していたバンドから、社会人バンドを集めて内々に好きな曲をやろうと誘いがあり、二つ返事で参加した。案の定見知った面子ばかりだったが、この男のバンドとは初めてだった。メンバーが心配したのは、それが理由だろう。
二枚目を揃えたような、吹けば飛ぶような輩の集まりにも見えた。だから、どんなものかと穿っていたのに、聞いていくうちに嫌な色眼鏡も色覚を失っていった。

演奏が終わり明るくなったライブハウスの客席で、グラスやジョッキを持った男女が、和やかに閑談している。壁にもたれ掛かる人、小さな丸テーブルに集まる人、床に座り込む人。秩序や統一性はない。
それなのに、顔見知りのバンドマン達や馴染みのファンはみんな、さっきまでの情熱を手放して、社会に疲れた大人の顔に戻っていた。

「ありがとう。2曲目、好きだった。」

言葉少なく、感想を伝える。それしか言えない自分を恥じる気持ちはない。ただ、この男が作ったらしい曲への感情は、恐らく二十分の一だって届いていないだろう。それは、勿体ないことかもしれないとは思った。

「イントロのギターリフ。」

それだけ言って目を見た。話すのは得意ではない。伝える言葉を考えるのが面倒だからだ。それに、言葉で補わなくても、平気なこともある。

思えば、話すことを面倒くさがるのは、随分と前からだった。
11歳の夏、同じクラスの同級生たちがウサギ小屋に座り込んで、亡骸を代わる代わる抱いたり、漏れそうな嗚咽を唇を噛んで抑えたり、温もりも冷めた寝床を見つめたりしながら、色んな顔で泣いていた。私は、強烈に刺すような目をしている小動物を、一度も名前で呼ばなかった。情が湧いたら嫌だった。だからずっと避けていた。案の定、私一人だけはどんなに時間が経っても泣けなかった。

みんな泣いてじっとしていたが、とうとう観念したように、埋葬してあげようと声が上がった。私が、焼いてあげないとダメだと言うと、みんな信じられないものを見るような目で私を見た。たったそれだけで、私のこの後悔も虚しさも、何故焼いてあげないといけないのかも、話しても誰にも伝わらない気がして、もう説明する気にならなかった。
そして、だんまりを決め込んだ。幼かったからだ。

その後の数ヶ月は、みんなの中で私は無情な化け物になったみたいだった。あの小動物を避けた私みたいに、触れなければ大丈夫と繰り返す目に、何故か納得してしまって、教室の隅っこで丸まって、パーカーのフードを被って巣ごもりをした。頭の中で何度も、大きくてギョロッとして、幾度と私を刺したビー玉みたいな黒目が思い浮かんだ。
まぁるいまぁるい、私だけのナイフ。

「うそ、マジで?!えー、マジか。めちゃくちゃ嬉しいわ。」

私の短い褒め言葉にはしゃぐ男の目も、ビー玉みたいに大きい。表情が変わるたび目線はころころと変わるのに、何故かずっと目が合っている気がした。私はまた避けるべきだと思った。私を刺すナイフになるんじゃないか。

「また一緒にやれたらいいな。」

心がびりりと震えた。私は今、この男が小さく呟いた言葉を、とても喜ばしいと思っている。それが分かった途端に、避けるべきだという自分の直感の正しさを感じた。一度懐に入れてしまえば、きっと執着してしまうだろう。それが分かっていながら私は、避けなければいけないという恐怖よりも、顔を突き合わせて話せる時間を失ってしまう方が、言い表せない不快さに襲われる気がした。

小動物にもこの男にも感じていたのは、その目が私を刺した後の自分がどうなってしまうのか分からない恐怖と、近付いてはいけないという自分への戒め。
そして、この男にだけ感じているのは、自我を持つ独占欲だ。有り体に言えば、どう頑張っても私だけのものにはならないと分かっていながら、縛ってしまいたいという欲求の傲慢さを、この男の前では我慢が出来ないということだった。

「やれたら、じゃなくて、やろう。貴方の曲、好きだから。」

当然だと言わんばかりの物言いができただろうか。男は目を見開き、私の顔を少しだけ見つめた。照れているような、困惑のような、それでいて今にも泣きそうな、不思議な顔をしていた。でもその顔は、二秒と経たずにいなくなり、さっきの軽薄そうな笑顔と打って変わった、はにかみ顔になる。

「告白みたいだな。なんか、すげえ照れるね。」

その顔を見ながら、思った。
この男の目が私を刺すなら、いっそそのナイフを持って私が振りかぶってしまおう。はなから口下手だから、喋れなくなってしまってもいい。その目に刺されると喜びで動悸がしてしまうから、見えなくなってしまってもいい。耳さえ残っていれば、私はこの男の作る音楽を聞くことが出来る。

この男の目は、まぁるいまぁるい、私だけのナイフだ。

-まるいナイフ-

8/12/2023, 4:00:39 PM