梅雨が、やってくる。
毎年鬱々とした気持ちになるこの季節に、もうそろそろ嫌気が差していた。
髪はうねるし、お気に入りの服は汚れるし、迂闊に日向ぼっこも出来ない。傘は必須だし、寒いんだか暑いんだか分からないから、カーディガンが手放せなくて荷物も増える。
「傘、持ってるんですか。」
地鳴りのような低い音色は、背格好が山のような男から発せられていた。
いつの間に近くに来ていたのか、その距離は近く、真横にいるくせに視線は空模様にだけ集中している。
「えぇ、忘れちゃったんですか?」
「そうみたいで。いつもは持ってきているんですが…」
聞いてもいない言い訳を、少し照れくさそうに話す。大きな体の割に物言いは柔らかい。その見た目で損をしたこともままあるだろうと、余計なお節介が頭を過ぎる。
顔は優しげだが、あまりの背の高さに、そもそもその表情が見えないといった具合だ。この男の人好きを考えると、過ぎるものもあるものだ。
「送ってあげましょうか。」
何の気なしに言ってみたものの、この時期だ、持ってる傘は折り畳みだし、私の身長では彼を守れず、彼を守るなら私は相当雨に振られることは請け負いだった。
同じことを考えたのだろう、彼の目が見開かれた。とんでもないという風に、首をぶんぶんと横に振る。
既に雨の中を走ってきたのか?まるで水分を吸収しきった犬が身震いしたみたいだ。
「傘を、借りてもいいですか。ビニール傘を買ってきます。」
はて、と考える。私たちの背には、既に終業し閉まってしまった会社の扉しかなく、悲しいかなこの辺りに暖まれるような場所もない。
コンビニに買いに行くくらいの時間なら待つことも吝かではないが、何となくそれも勿体ない気がした。
「じゃあこうしましょう。コンビニまでは送ります。そうしたら、傘を買ってください。」
譲る気のない私に気付いた彼は、鞄を手前に抱きかかえ、ぎゅっと縮こまった。
私は何だかんだこの男の挙動が好きなのだ。だから、こんな大雨の中この男を送るなんて発言をしてしまう。
180cmを優に超える大男のくせして、無邪気で大人しい幼稚園児のような素直さ。今も無理やり中腰で、私が濡れないようにしようと必死だ。
それを見て少し、可愛がりの気持ちが芽ばえる。私は大概意地が悪いのかもしれない。
「もし貴方が濡れたら、タオル、買ってきます。」
「分かりました。じゃあ、行きましょうか。」
辿り着いた頃には案の定、雨に降られ濡れていた。だが、彼の気遣いを感じさせる程度には収まっていたし、誰がどう見たって、彼の方がよっぽど濡れていた。
「…しまったな、やっぱり濡れてる。待っててください。」
彼は焦ったようにコンビニに駆けていった。私も中に入ってしまおうかと思ったが、冷やかしになるのも面倒なので、外で待つことにする。
傘に跳ね返される雨の音を聞いていると、何を考えていても全て吸収されてしまう。思考が定まらない。全く今日の夕飯が決まらない始末だ。
あぁ、冷蔵庫の中には何が入っていたっけ…。
「お待たせしました。これ、あの、タオル…」
おずおずと差し出されたそれを受け取り、濡れてしまった彼の髪を拭いてやる。
「な、先に腕とか、ほら肩も、冷えちゃいますよ。」
慌てたように彼が私からタオルを奪い取り、私の肩にそっと当てた。
「今日、寒いですよね。」
「え、えぇ。だから、早く拭かないと風邪引いちゃいますよ。」
幸いなことに、冷蔵庫は空っぽだった。
「お鍋、食べに行きましょう。」
梅雨が、やってきた。
今年の梅雨は、悪くないかもしれない。
6/1/2023, 7:01:19 PM