お題 遠くの空へ
「結愛(ゆあ、仮名)!」
「ん?」
振り向くと、あい子(仮名)がいる。
「何?」
「知ってる? 今日、横須賀でバルーンフェスティバルがあるんだって! でもここからじゃ見えないね。結愛、どうしても見たいんだけど。」
「バルーンフェスティバルでしょ? だったら見えるよ。何時から?」
「14時から。」
「今日午前授業でしょ? 私は見えるよ。」
「え!?」
「私、生徒会長だもの。屋上で会議があるの。ホワイトボード出して。そのとき、ちょっと早く来てれば見れるよ。」
あい子は残念そうに俯く。
「うちはあいにく、今日から日曜まで富山だから。見えないよ。」
「そんなことないよ! 実際には見えないかもしれないけどね、遠くの空へ、「バルーンフェスティバルはこんな感じかな?」って思ってみれば浮かんでくる。ね?」
あい子を送り出すと、ふと、屋上に出た私。寝転がり、空を見つめる。遠くに、赤い丸いものがふわふわと浮かび、空の階段を駆けて行く。おそらく、あれがバルーンフェスティバルの開催を告げるものなのだろう。きっと、あい子も、どこかで遠い空へ願いを込めて、送り出しているのだろうな。
お題 言葉にならない
言葉にならない
「残念ですが、インフルエンザB型ウイルスです。」
そう言われたときの、ショックと言ったら、なんの。2回目で、しかも子ども盛りの4年生、代表委員会などの夢が詰まっていた新学期に、そんなことを言われるとは。私はこの言葉にならない、もやもやしていてでもどこかはっきりと鮮明に光る怒りを押し留めるので精一杯で、これから隔離されるであろう一週間を思うのにまで余裕が回らない。それは、一週間が決められているからだと思う。家から一歩も出ず、マスクをつけてただひたすらに療養に努め、元気になっても外出を禁じられる。この辛さは、どんなサーヴィスや素晴らしいアンドロイドによるインタラクションでも忘れることはないと思う。普通、人はとても素晴らしい気持ちよさを得られるサーヴィスや最新型の何かに触れるとそのときだけ嫌なことを忘れるものであり、私もそうであるけれど多分、天国まで案内することができるというサーヴィスでも満たされることはあるまいと信じた。ぼんやりと外を眺めながら母に連れられて向かいの薬局に足を進める。感染したらまずいからとドアの横に椅子を置かれ外で待つことになった。と、そこで喉の渇きを覚え、くるりと薬局内を見回す。脳内記憶では、おそらく給水系の飲みものがあったはずだと思っていたのだが、それは鷺ノ宮駅前の薬局だというわけだ。ウォーターサーヴィスのありそうなところはないかと見回すけれど、そんなものは到底ない。そこでまた言葉にならない気持ちに襲われた。喉の渇きがどうにもならぬとわかり、封じ込めていたもやもやとしていて、でもどこかはっきりと鮮明に光る怒りが戻ってきたのである。
言っておこう。私は、学校を愛していると言ってもいいほどの人だ。一週間学校を休むなど、あり得ることではない。前回インフルになったときは涙に咽びながら休んでいた。ウォーターサーヴィスのことはすっかり忘れて本に没頭しようとしていたとき、ふたりの女児と母親らしき人が薬局から出てきた。ハッとして息を止め、少しでも飛沫感染経路を断とうとする。意味はないが。すると、また、言葉にならない気持ちが襲う。母子が去ったあとにはウォーターサーヴィスのことを忘れ去り、一週間後の自分を考えていた。
と、もうふたり、娘らしき子どもを連れた男女がやってくる。またもや息をとめ、通り過ぎるのを待つ。
唐突に、母が処方された薬を持って薬局から出てきたとき、ウォーターサーヴィスのことを思い出した。
「このあたりに、ウォーターサーヴィスのある店はないか」
と聞こうと思ったけれど、やめた。
明日から、きっと地獄のような隔離生活が始まる。
「夏帆(仮名)〜、ちょっといい?」
「何?」
寝転がっていたソファから起き上がり、母を見る。
「夏帆、元気なんでしょ? だったら内職してよ。」
そう言って母が出したのは、ラミネーターとラミネートフィルム、そしてラミネートする紙だった。
「これ、奈帆(仮名)の漢字カード。2年生になるでしょ。だから暇ならやってもらおうと思って。」
「え〜、奈帆のやつなら奈帆がやればいいじゃーん。奈帆、そういうの得意でしょ。」
いやいや引き受けると、紙を切り、ラミネートフィルムに挟んでいく。手際よく挟み、ラミネーターを起動させると予熱が始まり、緑のランプが光る。
「よっ、と。」
ラミネーターがフィルムを吸い込んで、どんどん接合する。
「できた。」
案外おもしろく、甲斐甲斐しく働いているあいだに三分の二をラミネート。明日のために残りは早めに切りラミネートを残すのみとした。
お題 春爛漫
春爛漫
それは春のもやもやを指す言葉だと思う。
ストレスは溜まるし、かと言って桜が咲くように明るい気分にならないわけでもないし。
そうは言ってもこの言葉、調べて意味を知った言葉であるし、深くそのことを感じることはまだないと思う。
桜は咲いて散るものだと思っているし、梅も桃も季節が来れば咲いて季節が終われば散るとだけ思っているから、「春爛漫はこんな意味だったのか。」と深く感じ入り、その意味に浸るのはまだ先のことだと実感できちゃうんだからね。
まあまあではあるけど、言葉はそこそこ知っている。けどまあ、意味とかを深く知って感じ入ることはほぼ絶対にない。言い切れる。あとは、言葉を深く知ろうと思うこともまだない。よほどのことじゃないとね。
遊びたいし、遊べないわけでもないけれど、遊ぶ気がしないなあ。誰かがまえ、
「春爛漫でいいわねえ、子どもは。」
と言った気がするけれど、誰だったかな。確かに、学校とか、遊び場とかで春爛漫と似たような気持ちになることもなくはない。ちょっとしたことで嬉しくなるし、その回数も多い。でも、その花咲いた気分もちょっとしたことで害されるよね。友達に文句言われたとか、嘲笑われたとか、やりたかったことがやれないことになったとか、ああ、春爛漫な気持ちって難しい。
夕陽を見ると−今日の分はまだ見ていないけれど−1日が終わりそうで残念なのに、なぜか春爛漫な気持ちになる。そのあと、「手伝い」という名の労働があるというのに。
でも、「手伝い」を嬉しく思うこともある。何かとても暇だったり、何かやりたいと思っていたりすることもあるから。
ここで、「私はガイノイド・アンドロイドです!」みたいなことを言い出したら、みんな「はぁ?」「嘘だろ」というでしょうよ。それで、笑ってもらえば春爛漫になれるかもしれないよ。
もともと、私の皮膚は人の温もりがあるし、生傷も絶えない。血の流れないアンドロイドには決してない青あざも持っている。アンドロイドとはどことなく、違う感じのある人だから、そう言って信じてもらえることはよほどの人でないとないだろうね。なんとしてでもその証拠を見つけてみせようと躍起になったりする人はいないと思うけど。
私はとてもこだわりが強く、そのおかげで春爛漫になることはとても多い人になったと思う。書体にもこだわり、お気に入りの字は「ふ」「り」「ひ」。この書体であればなお結構ですよ。
先ほど話したように、こだわりはとてもあるよ。だから、春爛漫というとても明るい気持ちになれたね。でも、一回、災いがあったね。新聞をグループで作ってたときだったかな? お気に入りの書体を見つけたもので、それに変更したら、とても文字が読みにくくなり、好評を得られなかったんだよね。あれは苦かった。苦かったぞ〜。
これで1000文字を超えたそうだね。おめでたい。
ベッドに敷いてる、真っ白なシーツを見ると、ちょっと変な気分になるんだよね。何というわけでもないけど、春爛漫とはほど遠いかな。
もう黄昏時。近所の桜スポットもすっかり葉桜でつまらないね。とっぷりと日が暮れて、春爛漫な空が曇ってるし。春爛漫な気持ちはどこへやら。
でも、やっぱり日が暮れると朝日を感じやすくなって春爛漫。
今日はいくつ、春爛漫な気持ちになったのかしらね。
書くことを諦めきれない私は、書くのを再開。締めくくりにくくなっちゃいました。春爛漫は、やはり明るく子どもらしい言葉なのかと思う。明るく無邪気で真っ白で、春の太陽みたいなやつ。てことは大人に
「あなたは春爛漫な人ですね。」
なーんて言ったら失礼?
「なんですか! 子どもと大人を一緒にしてはいけません!」
とか言われちゃうもんなんですか?
それとも、
「それなら春の陽だと言ってください。」
と言われるのかしら? だとしたらかなりの自信家だね。はてさて、私はやはり、とんでもないところで更新をしてしまう。だから締めくくりの言葉を失って、自殺行為に直結だ。というわけで、私の脳みそに唯一残された「ci vediamo domani.」という言葉で締めくくりをつけようと思う。これのあとに更新を重ねてしまったらどう終わらせるのか?
ちなみに、
「ci vediamo domani」というのはイタリア語で
「また明日会いましょう」という意味。初めてなのにたくさんの人がもっと読みたいと言ってくれました。
とても嬉しい。