冬は一緒に
高校の再考査は友達と一緒に
クリスマスは恋人と一緒に
正月は家族と一緒に
ひとりぼっちなんて存在しない
もしそんな人がいるのならば
その人は「一緒にいてくれる人」の存在を
まだ知らないだけ
とりとめもない話
「音楽の歌詞が分かりにくい」とか、
「現代文もっと簡単な言葉にしてよ」とか、
そういうことを言っている人は、
「言葉が凶器になる」って言葉についてどう思っているんだろう。
私は「言葉の力はとても大きい」くらいにしか思っていないように思う。
似た意味でも本当はちょっと違うのに、それを知ろうとはしない。
ましてや日本語なんて、他の言語と比べて自由度が高いのに。
「生きる」「生える」「誕生」「生活」「生まれる」「生す」
ひとつの漢字でもこれだけ読み方がある。
「〜だよ」という語尾に「ね」を付けるだけで、
共感出来たり、確認できたり、圧をかけたり、疑問を持ったり。
言葉の力は確かに凄いけれど、繊細さにも目を配るべきじゃないかな。
伝わりやすい言葉を選ぶからこそ、伝わらない事だってあるのだから。
───だけどこんな話は、そういう人たちにとっては……
どうすればいいの?
私は自己肯定感が低すぎる。
これは周知の事実である。
だけれど誰も知らない。
普通であるためだけに
「あげる努力が必要」ということ
そしてそれは
私を更に絶望へ追いやり
上げるどころか下げてしまう
常に繰り返される
抜け出そうとするほど嵌っていく
防ぐために何が必要だった?
逃げるためにどうすれば良かった?
私の少しの良心が
「絶望」から生まれていたなら
逃げ出すことは正解なのか?
私が私を引きずり下ろす
私に無いものを持つ人に憧れ、
叶わず落ち、「絶望」を刻む
私はどうすればよかったのだろう
キャンドル
暗闇でイルカのぬいぐるみを抱く。
布団を被って座っている。
遠目に灯りを見つめている。
ピアノを聴く。
旋律を撫でる手が見える。
か弱くも強かな曲線美を
流転する旋律に乗せて
私は穴の空いた心に和紙を貼った。
暗がりの中で
僕は何も見えない。
目が壊れている訳では無い。
おそらく五感は機能しているだろう。
そうでなければ、引きちぎられる足の感覚に気づきようがない。
突然、光が目に刺さった。
眩む。やはり目は機能していたようだ。
その中にあなたがいた。
手を差し伸べ、僕を助けようとする。
体を奪おうとする何かから。
それを感じた時、僕は理解した。
「光」が強ければ強いほど、
「暗がり」は深まるのだと。