素足のままで
素足でいるのが好きだ。
フローリングの冷たさや、絨毯のやわらかな感触が、足の裏から直接伝わってくる。
スリッパは足の間に一枚、無意味な境界線をつくる。
家の中にいるときは、世界を隔てる壁なんていらない。
足の裏で、全部感じていたい。
クロもいつも素足だ。
肉球で床を踏みしめている。
裸足のまま、世界の匂いを嗅いで、
裸足のまま、私の足元に丸まって眠る。
彼はきっと、
世界をそのまま感じることの、
美しさを知っているのだろう。
だから僕も、
できる限り裸足でいたいと思う。
できる限り、そのままの世界に触れていたい。
冷たい床も、温かい日差しも、
素足で感じるだけで、それは「いま」になる。
それは、クロが教えてくれた、とても単純な真実だ。
遠雷
遠くで雷が鳴っている。
もうすぐ来る雨の匂いが、窓から入ってくる。
私は、ただ静かにその音を聞いている。
何かを待っているようでもあり、
ただ、過ぎ去るのを眺めているだけでもあり。
クロは、ソファの上でお腹を出して眠っている。
耳をぴくりともさせず。
稲妻が光っても、気にもしない。
雷を怖がらない犬。
こんな大きな音に、心揺らがない。
その平穏さが、この部屋の、私の、
一番深いところに、届いてくる。
世界がどんなに騒がしくても、
たった一つの、ちいさな命が、
静かにそこにいる。
それだけで、遠い雷は、
ただの、夏が終わっていく音になる。
Midnight Blue
夜が、どこまでも青い。
真っ黒になる一歩手前の、深い深い青。
この色が好きだ。
静かで、なにかに包まれているような気がするから。
足元には、愛犬のクロが丸くなって眠っている。
規則正しい寝息だけが聞こえる。
世界には、わたしたち二人だけ。
そう思っても、だれも笑わない。
この時間だけは、すべてのことが許されている。
飲み残しの、気の抜けた炭酸水を一口飲む。
窓の外には、街灯の光がぼんやりと滲んでいる。
青の中に溶けていく。
クロが、寝言を言った。
そんな夜だった。
【君と飛び立つ】
クロが、横で寝息をたてている。
世界は、この部屋の窓の外、
もっと遠くの、どこか。
でも、そのどこかには、
いま、行かなくていい。
庭のブルーベリーの木は、
今年も小さな実をつけた。
甘酸っぱい、
記憶のような味がする。
手のひらに数粒のせて、
ひとつ、口に入れる。
クロが静かに顔を上げて、私を見ている。
その、どこにも行かない時間が、
どこへでも行ける時間のように思える。
この命と、この命と。
いつか、そうして、私たちは、
この場所から、そっと、飛び立つ。
「きっと忘れない」
人はなにかを得て、なにかを失って生きていくものだが、私はこの朝もまた、小さな幸せを得た。窓をあけると涼しい風が部屋に入り、青空がひろがっていた。庭の草むらが光に濡れて、露がきらきらと輝いていた。そのとき、クロが駆けよってきた。尾をふりふり、私の足もとにじゃれつく。黒くてつややかな毛並み。無邪気な瞳。私はクロの頭をそっと撫でる。「おはよう、クロ」、クロは嬉しそうに声をあげた。犬は人よりも素直だと思う。心が白いから、感情も真っすぐだ。私はクロと散歩に出る。道端の花を見つけて、二人で立ちどまる。風がやさしく吹いて、頬にあたる。私は思う。こうして過ごす日々を、私はきっと忘れないだろう。クロ、お前もそうだろうか。心にぽっと灯る、小さな感謝を私はそっと胸にしまった。