つけまゆげ

Open App
8/10/2023, 1:40:42 PM

暑い日が続いていた。辰巳は2Lのペットボトルを逆さにして、中に入っていたスポーツドリンクを最後の一滴まで喉に流し込んだ。

現場仕事は撤収が早いぶん仕事を始めるのも早い。だが、最近の夏は朝から夜まで一日中ずっと暑いままだな、と辰巳は日陰で休憩をとりながら思った。

日干しになったミミズが土の上で伸びている。土が温まってしまったために地上へ出てきたものの、外はもっと暑い。殺人的な日差しにあっという間に体内の水分を取られ、そのまま干からびたのだ。辰巳は少し同情した。

自分も若いときはそうだった。ままならない環境やうまくいかない人生に苛立ち、故郷を飛び出して都会でその日暮らしのような仕事を転々とした。
ここを出たら前よりはマシだろう、そういう希望を抱いて様々な場所へ、界隈へと飛び込んだが、結局どこも似たりよったりで、孤独と持て余した苛立ちは募るばかりだった。
あの頃から考えれば、今の自分はなんとも平穏な生活ではないか、と辰巳は思った。

タバコも金がかさむからやめたし、酒もほどほどにしか飲まない。パチンコにすら長らく行っていない。心身ともにそこそこ健全で健康な暮らしをしている。
あの頃から考えれば。

ある日、なけなしの金で飲んだ帰りにそのへんのヤンキー崩れのような輩数人に絡まれ、近くの路上で小競り合いになった。
当然、多勢に無勢で一人きりの辰巳は彼らに殴られ蹴られてアスファルトの上で横になることになった。
路上で伸びているミミズよろしく、辰巳は電信柱に背をもたせかけて、吐き気と痛みをやり過ごしていた。

「あの。大丈夫ですか?」
そう声をかけてきたやつがいた。ヤンキー崩れに絡まれたとはいえ、そのヤンキー崩れたちよりチンピラ風情のある格好をして倒れていた酔っぱらいに声をかけてきた女がいた…。


ピリリリ、と携帯が鳴り、辰巳は物思いから現実へと引き戻される。
発信は梨花からだった。
「瑞希が熱を出しちゃったのよ。大したことはないと思うけど。今日はどれくらいで帰れる?」
「ああ…、わかった。今日は昨日よりは早くなると思う。あとでもう一回連絡するよ。」

答えて別れを告げ、電話を切った。
まさか自分のような人間がこんな暮らしができるとは思いもしなかったな、と考えた。
もう一度地面に目をやると、ミミズの姿はもうなかった。どうやら、完全に死んではいなかったようで、どこかへ這って逃げたらしい。

俺もまだここが終点じゃないな。
ペットボトルをカバンに投げ入れ、辰巳は仕事に戻っていった。

8/10/2023, 8:58:30 AM

「ごめん」と彼はそう言った。
それがあまりにも消え入りそうな声で、あまりにも申し訳なさそうで、私は慌ててへらへらと作り笑いをして誤魔化した。

「いやっ、わかってるって。大樹はさ、吉岡先輩が好きじゃん?」
彼は肯定も否定もせず、申し訳なさそうな態度はそのままに、こちらの目を真っ直ぐに見た。
いつもの茶化すようなふざけたトーンではなかった。

私はそれで更に焦った。早口で続ける。
「いやぁ、本当気にしないで。てか、こっちこそごめんね。なんかさ、ほら、もうすぐ卒業だし?そろそろ会える機会も減るからさぁ、せっかくなら告っとけ、みたいな?勢いっていうか。そんな感じだからさ、気にしないでホント。」
彼は黙ったままだ。私だけバカみたいに明るい声で取り繕っている。

「めっ、迷惑だよね〜。ごめんね。」
へへ、と力なく笑ってみせたが、そこで彼は初めて怒ったように「迷惑なんかじゃない」と言った。
「俺、バカだ。井口が俺のこと好きでいてくれたの、気づかなかったよ。」
私は動揺し、二の句が継げなくなった。彼がそのように真面目に捉えるのは完全に想定外だったからだ。

彼、山本大樹は部員のけして多くない部の同級生で、気を置かずにふざけあえる友達でもあった。
いつもお互いを茶化したり、くだらないことで張り合ったりして、時間を潰した。
それがいつのまにか恋心に変化していると気づいたのは、もうお互いに進路も決まりつつあった秋のはじめのことで、私はかなり悩んだ。

それがただの友情でなくなってしまったとは、もうあえて言わなくてもいいのではないか。
そもそも、大樹は以前部に1年先輩として入部していた吉岡由希が好きなことは、なんとなく部全体で周知の事実だった。

だから「俺、先輩と同じ大学に行く」と大樹が真剣な目で口にするまで、私ももう何も言うつもりはなかったのだ。
だが、その時初めて笑わずに、眉間にしわを寄せて言った彼の顔を見ていると、どうしようもなく悲しく、悔しい気持ちになってしまった。

「私が、大樹を好きだって言ったらどうする?」と、まるで目をつぶったままボールを放るみたいに、後先考えずに彼の背中にその言葉をぶつけてしまった。
彼は、ショックを受けたように固まった。


「謝るなよ。流石に俺でも、井口がそんなこと適当に言ったりしないってことぐらいわかる。」
彼は今度ははっきり顔を歪めていた。そんな顔をさせるつもりはなかった、と言いたかった。
「ごめん」
下を向いたときに、自分の声に涙が滲んだのがわかった。そこでようやく、ああ、私は悲しかったのだ、と気づく。
振られて泣くなんてかわいくてずるい女の子がやるようなことだと思っていた。
ボロボロとあとからあとから涙がこぼれて止まらない。

「好きだったよ。」
くしゃくしゃに歪んだ顔でそう告げると、彼は「うん」と言った。
夕日のあかりが一筋だけ空に残っているのが窓の端に見える。

上手くいかなくたっていい、なんて嘘だった。

7/10/2023, 5:21:09 PM

目が覚めると白い部屋にいた。

壁も床も真っ白の広い部屋。天井は高く、見上げるとはめ殺しらしき天窓があった。そこから青空がのぞいていて、柔らかく陽光が差し込んでいる。

部屋の中央には立派なグランドピアノが鎮座していた。しかしこのピアノは異質だ。全てが真っ白の素材でできている。鍵盤も白黒ではなく全てが白に光っている。

今更ピアノなんか見たくもない、と思った。ピアノ。人生を捧げてもいいと思えるほどに深く熱中し、そして結局は諦めざるを得なかったもの。
近頃やっと少しずつ忘れることができていたというのに。そこで僕はこれが夢だと気づき、苦々しい思いを噛み締めた。

「弾いてくださらない?」
ふいに歌うような美しい声が聞こえた。目を見開く。ピアノの奥から響いてくるようだった。そこで合点がいった。ピアノが喋ったのだ。なるほどこれは夢だから、ピアノが口をきいてもおかしくはないのだろう。

「君には悪いが、僕はもうピアノは触らないんだ。夢の中だろうとね。」
僕はピアノから目を背けて言った。
「そう…。」
ピアノは心なしか残念そうに答えた。しばらく間があり、ピアノは続けて「でも」と言う。
「弾いていただけないと、この部屋から出られないという決まりがありますの。」
僕は振り返る。
「それはつまり…この夢から覚めることができないと、そういうことかい。」
「ええ…、現実の貴方はずっと眠ったままになりますわ。そういう夢ですの。夢というのもまた曖昧な話ですけど…言い換えれば、ここはあなたの心の中でもあるのですから。」

僕は考え込んだ。本当かどうか確かめるすべはないし、結局放っておいたらいつのまにか起きているのではないだろうか。その可能性もあるが…。
「もしそうだとして、じゃあ君は僕が弾くと思うかい。」
ピアノはしばし考え、「いいえ」と言った。
「たとえもう二度とこの部屋から出られなくても、現実で目が覚めることがなくなっても、あなたは弾くことはありませんわ。」
僕は笑った。そのとおりだ。
「よくわかっているじゃないか。」
「ええ。それだけあなたは傷ついたのですから。」

僕は清々しい気持ちで天窓を見上げた。不思議と現実にももうあまり思い入れはない気がした。
さっきよりも天井は高くなり、天窓は遠ざかって小さくなっている。いずれはもっと高く遠くなっていくのかもしれない。それでもいい、と思えた。

「私はあなたの心ですもの。」
ピアノはそう言って、そして静かになった。

それっきり、ピアノが喋ることは二度となかった。