つけまゆげ

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目が覚めると白い部屋にいた。

壁も床も真っ白の広い部屋。天井は高く、見上げるとはめ殺しらしき天窓があった。そこから青空がのぞいていて、柔らかく陽光が差し込んでいる。

部屋の中央には立派なグランドピアノが鎮座していた。しかしこのピアノは異質だ。全てが真っ白の素材でできている。鍵盤も白黒ではなく全てが白に光っている。

今更ピアノなんか見たくもない、と思った。ピアノ。人生を捧げてもいいと思えるほどに深く熱中し、そして結局は諦めざるを得なかったもの。
近頃やっと少しずつ忘れることができていたというのに。そこで僕はこれが夢だと気づき、苦々しい思いを噛み締めた。

「弾いてくださらない?」
ふいに歌うような美しい声が聞こえた。目を見開く。ピアノの奥から響いてくるようだった。そこで合点がいった。ピアノが喋ったのだ。なるほどこれは夢だから、ピアノが口をきいてもおかしくはないのだろう。

「君には悪いが、僕はもうピアノは触らないんだ。夢の中だろうとね。」
僕はピアノから目を背けて言った。
「そう…。」
ピアノは心なしか残念そうに答えた。しばらく間があり、ピアノは続けて「でも」と言う。
「弾いていただけないと、この部屋から出られないという決まりがありますの。」
僕は振り返る。
「それはつまり…この夢から覚めることができないと、そういうことかい。」
「ええ…、現実の貴方はずっと眠ったままになりますわ。そういう夢ですの。夢というのもまた曖昧な話ですけど…言い換えれば、ここはあなたの心の中でもあるのですから。」

僕は考え込んだ。本当かどうか確かめるすべはないし、結局放っておいたらいつのまにか起きているのではないだろうか。その可能性もあるが…。
「もしそうだとして、じゃあ君は僕が弾くと思うかい。」
ピアノはしばし考え、「いいえ」と言った。
「たとえもう二度とこの部屋から出られなくても、現実で目が覚めることがなくなっても、あなたは弾くことはありませんわ。」
僕は笑った。そのとおりだ。
「よくわかっているじゃないか。」
「ええ。それだけあなたは傷ついたのですから。」

僕は清々しい気持ちで天窓を見上げた。不思議と現実にももうあまり思い入れはない気がした。
さっきよりも天井は高くなり、天窓は遠ざかって小さくなっている。いずれはもっと高く遠くなっていくのかもしれない。それでもいい、と思えた。

「私はあなたの心ですもの。」
ピアノはそう言って、そして静かになった。

それっきり、ピアノが喋ることは二度となかった。

7/10/2023, 5:21:09 PM