【やるせない気持ち】
勇者として送り出されて、どうにか魔王を倒した。感謝してくれとか尊敬されたいとか、押し付けがましく言うつもりはない。けれど、迎えに来たはずの騎士に剣を向けられるとは思わなかった。
ひとりだけ引き離された時点で、疑うべきだったのかもしれない。
「申し訳ないがあなたを国に連れ帰ることはできない」
騎士はとても辛そうな顔をしていた。
「ああ……なるほど? 世界最大の化け物を倒した私はそれ以上の化け物であり脅威になり得るというわけか」
旅の仲間の聖女は一国の王女で魔法使いはその恋人だった。英雄の凱旋にはあの二人がいれば十分なのだろう。
騎士の持つ剣の切っ先が小さく震えていた。私を攻撃することに躊躇いはあるようだ。
人間の未来のために尽力した。少しでも平和に貢献できればと思った。強い力を持って生まれた者として、戦うことが使命なのだと。
けれど、その報酬がこれか。なんともやるせない気持ちで騎士を見た。
「君はそれでいいのか? 私を斬って、後悔はしないか?」
騎士からの返事はなかった。もしかして、人質でも取られているのかな。
切る余裕すらなく伸びてしまった髪を掴んで少し紐の位置をずらした。ナイフを出して、髪の根元側でざっくりと切り落とした。その髪の束を騎士に放る。
「持っていけ。勇者は死んだと言えばいい」
騎士が私を睨んだ。まあ、髪だけで誤魔化すのは難しいよな。
「見逃してくれるなら、私も君を見逃そう」
睨み返せば騎士はあからさまに怯んだ。
「君は魔王より強いのか? 私に勝つというのはそういうことになるが?」
はったりだった。私は魔王との戦いで疲弊していて、とても全力で戦える状態ではなかった。
騎士は切り落とされた髪を拾って、二歩三歩と後退り、背を向けた。一度だけ振り返って、そのまま姿を消した。
思わず漏れたため息は安堵か落胆か。ああ、襟足がすーすーする。髪を切るのに使ったナイフをきちんと収納して、身に着けていた防具をその場に捨てた。
もう魔王の攻撃を心配しなくていい。残党はいるかもしれないが、ほとんどは雑魚だろう。ならば重い鎧はむしろ邪魔だ。
これからどうするか。少なくとも、今までの名前は使えないだろう。
「ああ……そうか、自由だ……」
そう小さく呟いた。勇者の素質があると判明してから、あれこれと色々なことを強要されてきたけど、それももう終わり。
随分と久しぶりに見る青い空を、白い雲がゆっくりゆっくり流れていく。
私はその雲を追いかけるように歩き出した。
行くあてなんかない。目的地があるわけでもない。ただ偽名を考えながら、のんびりと歩いた。自由を噛みしめ、陽射しの暖かさを堪能する。
ついでのようにほんの少しだけ、先程の騎士の幸運を祈った。
捨てた鎧の重さ以上に身体が軽くなっていた。
【海へ】
言葉を捏ねて突付いて切って貼って。体裁を整えて見返して。どうにか形になったものを、畳んで硝子の小瓶に詰めて、そっと海へ流す。
誰かに届くだろうか。
拾ってくれるだろうか。
読んでもらえるだろうか。
それとも誰にも届かずに、読んでもらえないまま海底に沈み、知られず埋もれていってしまうのだろうか。
ネットに作品を上げる行為は瓶入りの手紙を流すのに似ている気がしている。
【裏返し】
これは珍しく実話。
私自身は洗濯物が裏返しなら直してから干すし、シワはなるべく伸ばす。
けど、とある友人は、まったく気にしない。
裏返しのまま干すし、ものによってはシワだらけのまま乾かしてしまう。
パジャマなんて誰も見ないし、と。
あ。こういう人、いるんだ。
何がいけないのか、なんでいけないのかまったくわかってないし、たぶん本人は本当に気にならないんだろう。
そもそもこの人はそこに『基準』がないんだ。
自分とは別のものさしを持つ人がいる。
当たり前が当たり前に通じない相手がいる。
そんなことを学んだ一件でした。
今もその友人がそのままでいるのかはちょっとわからないけど。
【鳥のように】
(魔女と弟子)
「どうせなら鳥の羽の方が良かったかしら」
猫の姿になった僕の背中にあるコウモリの翼を見て、魔女である師匠が言った。
『僕はどちらでも構いません。あなたがくれる姿なら、どんなものでも……』
死にかけた僕を助けるために、師匠は僕を使い魔にした。その時、師匠がくれた姿がコウモリの翼がある巨大な猫。しかし、僕はうまく飛ぶことができない。大きすぎるのかと身体を小さくしてみてもだめだった。
この翼は飾りに近く、滑空するのがせいぜいだ。鳥のように自由に飛びたいのなら、そのための術を習得する必要があるだろう。
師匠にブラッシングしてもらいながら、僕は言った。
『どんな姿にされてもいいですけど、人間の僕は残しておいてくださいね』
「あら。まだ未練でもある?」
『ありますよ。人の腕がなければ、あなたを抱きしめられないでしょう?』
師匠は顔を赤くして、僕を膝の上から押し退けた。
【さよならを言う前に】
(魔女と弟子)
師匠は魔女で、僕は魔女の使い魔。
人間ではなくなった僕は、年を取らない。師匠との繋がりがある限り、僕は心臓を貫かれても生きているだろう。魔女は長命、僕もいつまで生きるかもうわからない。
「師匠。もし、いつか僕に別れを告げたくなったら、その前に僕を……」
かなりの決心と共にそう口にしたのに、師匠の表情はいつもと変わらず穏やかだった。
「大丈夫よ。私は一度気に入ったものはそう簡単に手放したりしないから」
そう言ってもらえるのは嬉しいけれど、もしもの話だ。
「僕は、今更師匠から離れるなんて、耐えられないと思うんです」
「……仕方がないわね」
師匠がちょっと呆れたように言って、僕を見つめた。
「どうしても離れる必要がある時には、さよならを言う前に、あなたを完膚なきまでに消してあげるわ」
僕はホッとして笑った。
「良かった。約束ですよ?」
「ええ」
それから、師匠は小声でぼそりと言った。
「元から様子のおかしい子だけど、更に壊れてきてるわね……」
「聞こえてますよ」
使い魔になってから、聴覚が強化されているので。
「壊れているつもりはありません。僕はただ、師匠のことが好きなだけで」
「それがおかしいのよ。どうして魔女にそこまで尽くすの? あなたも元は人間なのに」
僕は自分の家族のことを覚えていない。
僕が知っている人間は、家族がいなかった僕を冷遇して魔女の生贄として差し出した村の人たちと、魔女の家を襲って僕を殺そうとした襲撃者。
その襲撃者のおかげで師匠の使い魔になれたわけだけど、だからといって感謝する気はない。
たまに師匠に頼まれて町まで買い物に行ったり薬を売ったりもするけど、あいつらは師匠の薬で助けてもらいながら、魔女の悪口はやめようとしない。僕のことも『気色悪い』と言っていた。
僕にとって魔女は優しくしてくれた恩人で、人間はろくでもないものなのだ。
「人間は僕の味方じゃなかったんです」
「それで魔女に捕まるなんて、不憫な子ね」
「僕は自分が不憫だとは思っていませんよ」
こんなにも気遣ってくれる愛しい人が隣にいる。
「好きです。僕のこと、捨てないでくださいね?」
師匠はもう一度「仕方がないわね」と言った。