【手放す勇気】
馬鹿なことをしているという自覚はあった。平穏な暮らしを投げ捨てて、自ら面倒事に巻き込まれることを選んだ。
だって放っておけなかったのだ。まだ幼い甥が異母弟の母親から命を狙われているなんて。
王妃になった妹が唯一遺した忘れ形見。その子を守るために、私は罪を犯した。
王子である甥をさらって逃げたのだ。第一王子は継母である現王妃に毒を盛られて亡くなった……そう偽装した。おそらく表向きは病死と発表されるだろう。
私は妹と甥を失ったことに意気消沈したように装い、宮廷魔法士の職を辞して国を出た。僅かな従者とその家族を連れて。甥をその中に紛れ込ませて。
甥は王の子でもあるけれど、やはり妹に似たのだろう。私が少し教えただけで、あっという間に魔法の使い方を覚えていった。乾いた土が水を吸うかのように。
甥の様子がおかしいと気付いたのは、国をひとつ横断している最中。いくらなんでも落ち着き過ぎていた。周囲の環境の変化にもっと戸惑うだろうと思っていた。
時間を取って話を聞いた。すると、甥はとんでもないことを言い出した。別の世界で生きた前世の記憶と神々の加護があるというのだ。
信じ難い話だ。けれど、そういうことなら今の状況に説明がつく。実際、甥は王子の立場では縁がなかったはずの知識を持っていた。誰にも習わず、料理をしてみせた。
とはいえ、まだ10歳にもならない子供だ。当分は保護者が必要である。
私は名前も身分も捨てて別人として暮らし始めた。甥のことは弟子として扱った。
とても優秀な弟子だ。私より優れた魔法士になるかもしれない。いつかは独り立ちして、王子でもなく私の甥でもない何者かになっていくのだろう。
その時はこの子を手放す勇気と守る力を持っていられたら良いと思う。
【光輝け、暗闇で】
迷宮の管理は本来なら冒険者ギルドの仕事である。それなのに、このリドの街では、騎士団が迷宮に関わっている。
俺は騎士団に入ったはずで、冒険者ギルドの職員になった記憶はない。けれど、リド砦に配属されてからは、迷宮関係の仕事ばかりだ。
リドの街の周囲には迷宮が複数あって、冒険者ギルドだけでは手が足りないというのは知っている。けれど、迷宮の入り口の見張りなんていうのは、騎士の役目か?
まあ……犯罪者が迷宮を勝手に拠点にしたら困るという意見は無視できない。迷宮の管理が街の治安維持に影響すると言われたら、確かにその通りだ。
入り口だけではない。浅い階層の見廻りもしている。特に初心者が多い迷宮では、遭難者の救助が騎士の仕事なのだ。
冒険者なんて、本来なら遭難しようが全滅しようが自己責任だ。けれど、俺よりも若い連中が再起不能になっていく様子をただ放って置くのは気分が悪い。
今までここで働いていた他の騎士たちも同意見だったようで、昔は有志だけが行っていた見廻りが、いつからか通常業務に組み込まれるようになったらしい。
見廻るついでに迷宮の中に目印を書いてやったりもする。出口はこっちだとか、次の階層はここからとか、休憩場所はあちらとか。
少し世話を焼きすぎな気もするが、俺たちがこうして助けた中から、将来強い冒険者が現れてくれれば、迷宮の管理が楽になる。
迷宮というのは、放置しすぎると中から魔獣が溢れ出るのだ。それを防ぐには冒険者に探索と討伐を続けてもらうしかない。
街を守る騎士たちと迷宮を攻略する冒険者たちは、一見まったく別物に見えて、実は密に関わっているのである。
だからと言って、何故、騎士である俺が仕事で土いじりをしなければならないのか……
「ああ、雑に扱わないでよ。貴重な植物なんだからね」
冒険者ギルドから派遣されてきたとかいう男が顔をしかめている。そんなことを言われても、花の植え替えなんてしたことがない。
俺が今植え替えているのは『夜光草』という植物だ。これは暗い場所でも枯れずに育ち、自ら光を放つらしい。
周囲の魔素を吸収しているとか言っていたけど、詳しいことは知らない。説明は聞いたものの右から左へ流れていってしまった。
とにかく。これは光る花が咲く。だから、冒険者ギルドではこれを育てて迷宮内に植え、目印にするのだという。
剣を持つ手を泥だらけにして、俺はいくつもの苗を鉢に植えた。上からたっぷりと水をかけてやる。
ある程度育ったら、迷宮に植えるのも俺たちの仕事だ。せいぜい光輝け、暗闇で。
【酸素】
空気みたいな人って言ったら、なんだか悪口っぽいけど、酸素みたいな人って言うと、ちょっとありがたいような気がしてくるよね。
やっぱりそれだけ重要ってことかな。
あなたは私の酸素。
居なきゃ呼吸できないんだからね?
ちゃんと近くに居てよね。
でも酸素って、過ぎると毒なんだっけ?
そんな所もあなたっぽい。
甘やかされて駄目になっちゃう。
【記憶の海】
私の記憶の海の底には、たぶんアカハライモリが住んでいる。
イモリだから、海水には住めないと思うから、もしかしたら、私の記憶は海じゃなくて湖なのかもしれない。
とにかく、底には黒い砂利があって、黒い背中に斑に赤い腹のイモリが居ると思う。
何故なら、それが私の思い出せる限りで一番古い記憶だから。
本当にあったことなのかどうかもよくわからない。けど、黒い砂利の水溜まりに鮮やかな赤い腹をしたトカゲモドキが居た……そんな光景を、何故か幼い頃から忘れられずにいる。
BLです。苦手な方はご注意ください。
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【ただ君だけ】
「あー。マジかよ、ふざけんな」
つい溢れ出てしまった悪態に、同僚たちが何人かギョッとしてこちらを見た。すぐに口を閉じて表情を消した。『今の、聞き間違いだよな?』という視線のやり取りが交わされて、結局誰も何も言わなかった。
いけないいけない。気を付けないと。『マジかよ』だとか『ふざけんな』なんて、相応しくない物言いだった。
だって今の僕は侯爵家の三男であり、社交界では『金の薔薇』と呼ばれる見目麗しい貴公子ロドリック・カルヴァートなのだ。この王国魔法薬研究所の筆頭薬師。いくらか無愛想ではあってもガラの悪い男ではない。
4歳の時に前世を思い出してからずっと、僕は頑張ってきた。あまり庶民的すぎる言動をしないように、貴族の社会に馴染めるように。
自由を失うことは避けたくて、我儘を通せる立場を手に入れようと奮闘した。薬神フェネル様から授かった加護を活かしつつ、勉強もして実績を積み上げてきた。
今なら僕がちょっと脅せば、かなり無理なことも叶うだろう。
だけど、この話はきっと拒めない。僕は手元の紙に視線を戻した。要約すると『第三王子との婚約が決まった』そう書かれている。姉や妹の話じゃない。僕が婚約するのだ。
大きすぎる力を持つ僕を王家に従わせるためだ。この国には王女がいないし、法律は同性婚を認めている。王子の結婚相手が同性というのは異例ではあるけれど。
僕は少しばかりやり過ぎたのかもしれない。瀕死の人間が飛び起きるような薬は作るべきじゃなかった。王子をひとり犠牲にしてでも、僕の行動を制限したいのだろう。
そう、思っていたんだけど……
久しぶりに会った第三王子、僕と王立学院の同級生だったアーネスト殿下は、僕を見てうっとりと笑った。
「ああ、良かった。ちゃんと来てくれたね、ロドリック。金の薔薇は今日も綺麗だ」
なんだか様子がおかしい。
「あの……この婚約は政略的なものなのですよね?」
「誰がそんなことを言ったんだい?」
「え?」
アーネスト殿下が僕の手を撫でた。
どういうことだ。まさか……
「私が欲しいのは、隣に並びたいのは、一緒に生きたいのは、ただ君だけだよ、ロディ」
僕の能力のせいではなく、この人が僕を望んだから決められた婚約なのか。本当に?
「僕をこの国に縛り付けるための嘘なら、おやめください」
「酷いな。信じてくれないのか」
信じろと言う方が無理だ。その時はそう思ったんだけど。僕に向かって『君が信じてくれるまでじっくりと口説かせてもらう』なんて宣言したアーネスト殿下は、会うたびに愛を囁いてきた。
その表情は、言葉は、ただの演技には見えなくて。もしかしたら本気なのかと思うようになり、会えないと物足りないと感じるようになっていった。
婚約から半年。アーネスト殿下の隣が居心地良くなってきた自分を否定できない。指先にキスをされても動じなくなった。すっかり絆されている。
でも。きっと結婚したら今のようには口説いてくれなくなるだろう。それはなんだか寂しいような。
だから、もう少しだけ。
まだ信じきれないフリをしていたい。