「きずな」なんか綺麗事だと思ってるから、絆のこと、すぐ「ほだし」って読んでしまう。
卑屈な私をゆるして。
「たまにはフレンチでも食べに行こう」
寝起きのボサボサ頭に似つかわしくないことを彼が言う。「うん」とだけ返しクローゼットからよそ行きのワンピースを取り出す。3年前、姉の結婚式のために買ったワンピースはもうずっと奥にしまってあったから、若干シワになってるけどまあ大丈夫だろう。さっきは適当に返事をしてしまったけど、一目散にワンピースを取りに行くくらいにはちゃんと嬉しい。久しぶりに役割を果たせて、ワンピースも心なしか嬉しそうだ。でも素直に喜んだら彼はすぐ調子に乗るから、飛び跳ねたい体を理性で抑えてできるだけ冷静に。肝心なところで素直になれない私は自分でも可愛げがないと思う。
彼が予約してくれていた高級フレンチを食べて、履きなれないハイヒールで家に帰る。足が限界で、玄関に入った瞬間脱ぎ捨てた。さっきまでいた空間と家の安心感のギャップで、一気に緊張が緩んだのか、彼が言った。「腹減ったな」
食べたばっかじゃん、ムードないなぁと呆れながら言おうとしたのに、私のお腹が理性に反抗声明を上げた。負けた気がするし恥ずかしいしなんか悔しいしで、顔が真っ赤になるけど、彼があまりにも良い顔をして笑うから私もつられて笑ってしまう。彼の瞳に私しか映っていないことが嬉しい。笑いすぎて、幸せで、泣きそうになった。彼との同棲も半年が過ぎ、お互いの嫌な部分も知ったしもうドキドキしなくなっちゃったと思ってたけど、やっぱり好きだ。たまには素直になってみようかな。笑い終えてカップラーメンの封を切っている彼の耳に小声で届ける。
「ねえ、大好き」
いつも飄々としてる彼の、たまにしか見えない表情が見えた気がした。
「遠くの街へ行きたい。誰も私のことを知らない場所へ。」
ベッドに横たわる彼女が、やつれた頬をほのかに綻ばせながら、か細い声で囁いた。ああ、まただ。彼女は最近こんなことを頻繁に言うようになった。この言葉が私には死を予感しているようにしか聞こえないし、微かな笑みを浮かべた表情は自分の運命を悟った者のそれに見えてしかたない。喉がきゅっとなって目頭が熱くなるけど、そのことに気付かれないように、彼女の前で泣かないように、私は極力明るい声を出して言った。
「病気、治ったら行こうね。絶対!」
いつもはここでこの会話は終わるけど、今日は違うのだ。したり顔をして、私はパンパンのリュックから10冊以上の『地球の歩き方』を取り出した。中国、スペイン、アメリカ、インド、フランスなどなど。彼女はここ最近で一番の笑い声をあげた。
1ヶ月して彼女は死んだ。結局病院のベッドから降りることはなく。きっと彼女も自分の運命を知っていた。私だって、病気が治ることを信じていたかったけど、それは地球がひっくり返ってもあり得ないことだと医者の診断書は告げていた。運命に抗えなかった私たちだが、せめて約束は果たさなくては。
白い骨壺をリュックに入れ、スニーカーを履く。2人で読み尽くしボロボロになった『地球の歩き方』を手にとって、アパートのドアを開ける。
「さあ、行こうか」
君は今、何しているだろうか。僕は今、手術台のようなものの上に寝かされて、大きなライトで照らされて、灰色の生命体に囲まれているところだ。僕を囲んでいる奴らは、頭と目が異様に大きく指が長い。いわゆるグレイといったような生命体である。どうしてこんなことになってしまったのだろう。深夜に無性にラーメンが食べたくて、罪の意識を自覚しつつもコンビニに駆け込んだ。その帰り道に謎の光に包まれた結果がこれである。僕の罪は宇宙人に拐われるほどの大罪だったのだろうか。僕のカップラーメンが視界の端で奴らに食われそうになっているのが見えた。あーあ、お湯入れたほうがうまいのに。泣きそうだ。
「もう!不摂生ばっかしないで健康に気をつけてよ!」君の金切り声が懐かしい。僕の罪は今までずっと君の意見を蔑ろにして聞く耳を持たなかったことなのかもしれない。もし生きて帰れたら、君に土下座をしてボウルいっぱいのサラダを泣きながら食べることだろう。
今はもう神と君に祈ることしかできない。
I Love you を夏目漱石は「月が綺麗ですね」と訳したらしいけど、そんな遠回りなこと言ってないで160km/sの直球ストレートで勝負に出て欲しい。バッターボックスに立った私は、きっと八百長を疑われんばかりのから振ぶりを繰り返し、アウト。簡単にあなたの胸に飛び込めるのに。
「好きです」の四文字をずうっと待ってるのに、一向にそんな気配はない。適当に遊んで適当に飲む関係。別に肉体関係はないからただの友達だと言うこともできるけど、少なくとも私は自分の中にあるそれ以上の感情に気づいてしまってるし、彼が友人に私のことを相談してるのも知ってる。でも好きバレは良くないって聞くし、男は追っていたい生き物ってなんかの雑誌で読んだから、私からは絶対言わないって決めてる。彼は大学の野球部のキャプテンだし、脳筋だけど一応授業でも忙しくしてるみたいだから、私なんか眼中にないのかもしれない。なのにこんな曖昧な関係は続いてる。ストレートが一番得意な球って言ってたのは嘘だったのだろうか。
居酒屋を出て、駅までの道を2人で歩いていると、もうすぐ満ちるだろう月が燦々と輝いていた。隣の男には文学の知識もそれを味わう情緒もクソも多分ないから、言っても気付かないだろう。それでも少しは気付いてくれるんじゃないかという淡い期待と、バレてしまうかもという若干のスリルで胸がいっぱいになる。「ねえ、月が綺麗だよ。」私は彼をまっすぐ見据え、バットを構えた。