恋と呼んでいいのか分からないくらい、小さな小さな感情があった。でもあれは確かに初めての感情だったと今は思う。
部活の先輩で、委員会も同じだった。部活はあまり活動的ではなかったけど、行事で遅くなってしまった委員会の帰りにはコンビニでお菓子を奢ってくれたりした。部活のメンバーと夏には祭りも一緒に行った。
学校からの帰る方向も似ていて、何回か乗り換えを一緒に帰ったこともある。人付き合いが上手でない私が、隣に並んで歩いたあの時間を苦痛に感じなかった、当時では唯一の人だった。
向こうからしたらただの後輩だろうけど、私にとってはほんの少し特別な人だったんだ。
「雲に乗る」のは現実には無理である。見た目はふわふわと綿のように柔らかそうだが、実際は水や氷の小さな粒が集まって白く見えているだけだ。
それでも雲に乗ることができるのならば、東の果てに朝日を見に行きたい。
科学的には無理と知っていてもそんな夢があっても良いじゃない?
風は空気の移動によって起こる。自分は動いていないけど、その周りにある空気が動くから風が吹いているように感じるし、自分自身が動いていて、周りにある空気の接する場所が次々変わるから風を感じる。
自分が動いているのか、周りが動くのか。
では、「風に乗る」はどういう状態なのだろう。
元々空中にあってその空気が移動するからなのか、もの自体が地面と接することなく水平方向へ移動しているからなのか。どこを基準として考えているのかによって表現が変わってきそうだ。
「もの」に対する見方は表裏一体だと思う。この角度から見ているからこう感じる、あの角度ではこう見えるから、見え方は人によって違い、意見が異なるのは当然だと私は考えている。
時々ふとした瞬間に、自分がとても小さな存在だと感じる時がある。
普段の生活では、周りは自分が中心の視点として動いているように見える。しかし時たま遠く離れた国の人々について知ったり、自然の生物の生き様を見たり、ミクロやマクロの視点に気づくと心がすっと冷えるような気分になる。万能感から一気に自分の力では何もできないと、何も与えられないのだと。
「生きる」ってそういうものの積み重ねなのかもしれない。
そんな気がした
「今日の心模様です」
テレビをつけると、アナウンサーの声がする。
「昨今の災害により国民の安全に心を痛めている、とのことです」
感情を排した言葉に、今日も太陽は見えないだろうなと珈琲をすすった。
この星に生命が誕生して幾万年。さらなる進化を遂げた私たち種族は、感情が自然現象とリンクするようになった。
といっても、平民の感情が周りに影響させる範囲は狭く、せいぜい半径1メートル範囲の空気を動かす程度だ。広い範囲での気象を操れるのは王家の血筋、なかでも現在即位している王のみが国を覆う空気に影響している。つまり、簡単に言えば王の気分次第で天気が決まるのだ。
それを利用して、専門家が陛下に気分をお聞きし分析して予報する「心模様」として、一般国民に天気を伝えるようになった。
マグカップを手にしながら窓から外を眺めると、空には厚い雲が覆われている。思い返す限り3年はずっと曇りのままだ。青空を知らない世代も多くなってくるし、太陽光がないことによる作物への影響について、ワイドショーなどで取り上げられていたことを思い出した。かくいう自分の子供ももうじき3歳になる。青空を知らない世代なのだ。
これも仕方ないのかもしれない。毎年のように国のどこかで災害が起きている。
それでも私たちは生きている。生きていくしかない。
昼寝をしている我が子をそっと撫で、1日でも早く青空が見れることを祈った。