「お願い、点いて……!」
わたしは、目の前の消えかけたかがり火に向かって、必死に手をのばした。
わたしたちの住むこの街は、別名、〈眠り風の街〉とも呼ばれている。
ある時から、東の山脈から吹きおろしてくる夜の風に、何か甘い香りが混じり始めた。その山から運ばれる何かが、人々を強制的に、深い眠りに落とすのだ。建物の中に入り、扉や窓をぴったりと閉めても、それは防ぐことができなかった。
そして、一度眠りについてしまえば、水や食べ物を摂ることもできず、そのまま体が弱り死を待つことしかできない。
それを避けられる唯一の方法は、街を囲むように、特殊なかがり火を灯し続けることだった。風の香りを、この火でなら打ち消すことができるのだ。
わたしを含む、呪文を使える数人が、交代でこのかがり火を守っている。
「代われ!」
離れた場所にいた、わたしの先生がこちらに駆け寄り、呪文を唱えつつ、かがり火に手をかざした。
ぼうっと、火が勢いよく燃え上がった。周囲が強い炎に照らされ、明るさを取り戻す。
わたしは、肩の力が抜けて、よろめいた。
よかった……。
先生の厳しい目が、こちらを見下ろしていた。
「次、行くぞ」
「はい……!」
気を取り直して、次のかがり火の場所へと向かう。
風の秘密が解明されるのが先か、街の人々が別の土地へ移住するのが先か。ともかく、それまではこの火を絶やすわけにはいかないのだ。死の眠りを遠ざける、この街の火を。
『火の守り手』
(街の明かり)
そっと、扉を叩く音がする。
そこから顔を覗かせた、一年ぶりの愛しい人ーー彦星ーーに駆け寄り、私たちは抱きしめあった。
「変わりはないか?」
そう尋ねてくれる優しい声に、うなずく。
彦星は、私に一つの贈り物を持って来てくれていた。
包みを開けてみると、丸い小さな鏡が出てきた。無数の光がちりばめられて、手のひらの中で輝きを放っている。
「綺麗…」
「星の欠片を集めて、磨いて作ったんだ」
と、彦星は自分の懐からも同じものを出した。
「これで、離れていても、お互いの顔を映し出すことができる」
声は届けることができないんだが、と残念そうに言うけれど、私は、その気持ちがうれしかった。
「牛追いの仕事の傍ら、これを作るのは大変だったでしょう」
しかも、私の父である天帝の見張りの目が、光っている中で。
「いや、会えないことに比べたら、そんなことはない」
彦星は、星の鏡を持つ私の両手を、しっかりと握った。
「もう少しの辛抱だよ」
「ええ、私の方も、もうすぐ伝え終わるわ」
数年前に、こうして会った時、私は彦星に心の内を漏らした。ーーやはり、一年に一度しか会えないのはおかしい。遥か昔、私たちが共に暮らしていた時、仕事に身が入らない落ち度はたしかにあった。けれども、もう今はそんなことはないのに、と。
いくら天帝であっても、こんなやり方は横暴だと訴える私の話を聞いていた彦星が言ったのだ。一つ方法がある、と。
それは、私たちの仕事を周りに伝え、分けること、だった。私の機織りの術を、共に暮らす側女たちに。彦星の牛の扱い方を、周囲の童たちに。
二人が少し持ち場を離れても、天界の動きが決して止まらないように。
「年数はかかるが、これなら会う時間を作れるようになる。きっと天帝もお許しくださるよ」
私たちは目を見交わして、その日が来ることを心から願った。
『星の鏡』
(七夕)
じぃわじぃわと、蝉が鳴いている。
食卓には、母が盛り付けた色鮮やかな野菜のサラダが、ガラスの器で出されている。
こんな時は、あのひと夏を思い出す。
* * *
サンダルの裏で踏み締めた小石は、朝から太陽に晒されて、すでに熱を持っている。蝉の声が、うるさいほど耳に響く。叔父の家から、祠の脇を通り、近くの川まで歩いてくるだけで、ぼくはもう汗をかいていた。
川べりにしゃがみ込んで、指先を浅い水に浸けてみる。
気持ちいい…。
この夏休みに入って、母が急に入院することになり、ぼくは山間の叔父の家に預けられることになった。
それまで、親戚の葬式でしか顔を合わせたことがなかった父親の兄は、寡黙な人だった。たぶん、ぼくとどう接していいかわからなかったのだろう。
独身の叔父の家には、ゲームも漫画もない。ぼくも、何を話していいかわからず、日中畑仕事を手伝った後、黙々と食卓を囲むだけの日が二、三日続いていた。
「何してんだ?」
唐突に、頭上から声が降ってきた。
しゃがんだまま見上げると、ぼくより少し歳上らしい背丈ーー中学生くらいだろうかーーの人影が立っていた。
逆光になっていて、顔はうまく見えない。
「や、別になにも…」
叔父の家にいても、やることがない。持ってきた学校の宿題も終わってしまったし、遊べる知り合いもここにはいない。つまり、暇を持て余している。
「そかそか。じゃ、おれと遊ぶか?」
声の輪郭がぼやけたような、不思議な話し方だった。この人影が来てから、少しひんやりとした涼しさも感じていた。
「うん、いいよ」
相変わらず、相手の表情は見えない。でもなぜか、笑ったような気がした。
それから数日間、ぼくとその相手は、色んなことをして遊んだ。川沿いで待ち合わせては、蝉取りや、木になっている果物を食べたり、上流の沢に行って泳いだりもした。あまり、お互いに踏み込んだことは聞かなかった。彼は、本当に泳ぎがうまく、水をかく指の間に、薄い膜があるように見えた。
「危ないところもあるから、一人では、泳ぎに来るなよ」
「足がつかないから?」
そう聞くと、彼は困ったように頭をかいた。
「おれの仲間に、ふざけて、水中から足を引っ張るやつがいるんだよ」
なんの冗談なのか…?
ぼくは、急に体が冷えたような感覚に身震いした。そういえば、どんなに目を凝らしても、彼の姿ははっきりとは捉えられないのだった。
「それって」
「…さて、楽しかったな。そろそろ帰るか」
帰り道は、二人とも無言で歩いた。
いつもの川のところまでくると、彼は、じゃあ、と片手を上げた。
「気をつけて帰れな」
「あの、ありがとう」
そう言うと、ちょっと驚いた気配の後に、「おじさんにもよろしく」と返事が来た。
「叔父さんのこと、知ってるの?」
「ああ、キュウリおいしかった、って言っといてくれ」
キュウリなんか、誰かにあげたりは…いや、昨日、祠に採れたての野菜を供えに行ったな…。
「君、って…」
彼は手を振って、こちらに背を向けた。ごそごそと平たい何かを懐から出して、頭の上に乗っける。
あの祠に祀ってあるのって、たしか…。
帰ってその話をすると、叔父は変な顔をして聞いていたが、祠へのお供えものには、明らかにキュウリの割合が多くなった。それから、叔父とも少しずつ会話が増えた気がする。
* * *
その後、また彼と会えたことはないが、久しぶりに叔父の家に行ったら、あの川と祠に行ってみたい。たくさんの野菜を持って。
『夏の川と童』
(友達の思い出)
見上げた空には、星は見えない。
暗い野原で、手の中のひしゃげた小さな塊を、引き伸ばし、ふうっと息を吹き込む。
頬が疲れてくる頃、夜空に紛れるような色の、大きな風船が膨らんだ。
その風船の糸の端に、銀色の短冊をくくりつける。
誰も知らない、願い事を記したもの。
そうっと、上に向かって手を離せば、やってきた風が、風船を空高くすくい上げた。
糸の先で、短冊が踊るように回る。月の明かりを弾いて、星々のようにキラキラと光る。
風船と短冊は、どんどん高く昇り、小さくなっていく。
遥かな先で、たくさんの場所から放たれた願いが集まり、星明かりとなるように。
『銀の集まり』
(星空)