私に向けられることなどない貴方の視線の先を追う。
日曜日。午後。駅前市立の図書館。
名前も、年齢も、性格も声も、何も知らないその人と私の、たった一つの共通点。
棚に揃えられた文庫本の背表紙をぼんやりと流し見ながら、壁際の椅子にてページをめくるその人の様子をちらと伺う。
私語禁止のルールを都合のいい言い訳として、声をかける気も勇気もないまま同じことを繰り返していた。
まだ恋と呼べるほどはっきりとした感情ではないのだ。
ただ、静かに本を読むその姿勢に、横顔に目を奪われてしまっただけ。偶然、けれど何度も繰り返し見かけるうちに、その人となりに興味が湧き出てしまっただけ。
それでも、何気ない習慣だった『図書館に行く』という行為に、いつしか今までとは違う楽しみを見出すようになっていた。
どうせ一人だからと最低限の身だしなみしか整えていなかった自分が、たった一人の他人の目に映る可能性を考えてほんの少しのおしゃれを気にするようになった、くらいの、そんな変化。
何気なく本棚の間を移動するふりをしては、椅子の横を通り過ぎてみる。不自然に思われないように、一日一回、その意識が手元の本へ熱心に向かっているからこそできること。
少し離れた椅子に座り、自分の読んでいる本に隠れてその人の持つ表紙を盗み見る。読んだことのある本ならばなんだか嬉しくなれるし、まだ手に取ったことの無い本なら読んでみたいと思える。
あわよくば二人の接点になってくれはしないだろうか、と受け身の淡い期待を抱きながら。
わかっている。人生は甘酸っぱくて心躍るような恋愛小説のようにはいかないのだと。どんなに偶然同じ場所にいようと、思い切った行動を起こさなければ結局は赤の他人のまま変化はしないのだと。
行動を起こしたって上手くいかないかもしれない。
私が思っていたような人じゃないかもしれない。
もうその人には結ばれた恋人がいるのかもしれない。
私は臆病だから、知らないものは知らないままで良かった。変わらない今の状態が続くのなら、それが一番良いと思えた。
本を開く。探していた、所狭しと並んだタイトルから記憶を辿ってようやく見つけ出せたもの。
きっといつまでも、この偶然が終わるまで、一方通行のままだろう。
視線が重なることはないのだと現実的観点に感情を抑えられ、それでもなお、私の目はいつか貴方がなぞった文字列を追うことを止められないでいた。
【視線の先には】
オレンジ色のオーバーレイがかけられた世界。
虫の声、カラスの声、公園ではしゃぐ子供たちの声。もうすぐスピーカー越しの『ゆうやけこやけ』が辺り一帯に鳴り響くのだろう。
いちにちの中で、私はこの時間がいちばん好きだった。
「でも君、夜は嫌いだって言ってたじゃないか。暗くて、不安で、さびしいからって」
あちこち塗装が剥げた緑色のフェンスに寄りかかり、ぼうっと空を眺めていた友人がそう呟く。
昼間の清々しい青色はもうすっかり明日の方に追いやられていた。
今日は濃い橙色。赤色もあれば、紫色から薄桃色まで、夕方の空はいつも飽きない色を見せてくれるのだけれど、やっぱりこの色が『夕』という字にとても似合っているように感じた。
「夕焼けなんて一瞬で、あの陽が山の向こうに隠れきってしまえば、もう夜を迎えることになるのに。
嫌いなものへの一方通行を愛しているだなんて、変なやつ」
つん、とすました態度は相変わらずで、私の感性にきみがまったくそうだと頷く日はきっと来ないのだろう。
きみは寒い夜に手を擦り合わせながら見る新鮮な星が好きで、私はあたたかで懐かしさを感じる太陽の『また明日』を見送るのが好きだった。
ずっと、昔からずうっと、私たちがぴったりと合うことはない。
それでもこうして、ただ横に並びながらなんでもない時間を過ごすのは苦にならなかった。
「でも、きみは眩しい朝が嫌いだって言ってただろう。そのために過ぎ去る夜が好きなのにね」
「……明日になればまた来るじゃないか」
言い返してやった私の言葉にほんの少し眉をしかめたその横顔が愉快で、ふは、と思わず吹き出した。
どうせ過ぎ去るのだ。どの時間を愛したとて。
それでもまたいつか同じ感覚を味わえると知っているからこそ、私たちはいつだってそれを好きだと言えるに違いない。
「じゃあ。また今度、一緒に星を見ようか」
もう太陽がおやすみを言い残していく。もう夕焼け色が深い藍色に乗っ取られていく。
それでも『次』は来るから。
伝えることこそないけれど、空の色が変わろうと、目に映る景色が何色に照らされようと、私はきみと並ぶ時間そのものを愛している。
【沈む夕日】
甘美。
この時間を表す言葉は正しくそれに違いなかった。
かち、かち、と一定の間隔を刻んで揺れる秒針がこの静かな空間を守っている。
机を挟んで向かい合う椅子が二脚。頬杖をつき、曖昧でどこか無機質な微笑みを浮かべる少女と私は相対していた。
ここにはこれ以上何も無い。何かが生まれることも、崩れていくことも、何も。ただ、私と少女がいる。
「退屈?」
これが彼女が発した最初の言葉だったような気もするし、以前に何か二言三言会話を交わしたような気もする。全ての感覚がはっきりとせず、しかし視界だけはこれが現実であると信じ込みそうになるほど晴れきっていた。
私は少女の問いかけに首を横に振る。
「そう」
返答が満足いくものだったのか、それとも全くの予想通りだったのか。ただの人間に過ぎない私には彼女の感情を性格に読み取ることなどできないが、少女はそれ以上言葉を続けようとはしなかった。
その代わり、長い睫毛に縁取られた目をそっと伏せる。光源もわからぬ光がきらきらと繊細な毛束に反射して煌めいた。
息をつくほどの美しさ。
意識しなくとも勝手に視線が吸い寄せられ、他のこと全てが目に入らず、どうでもよくなる。美しさは罪であると言うが、確かにこれを独り占めできるのなら、躊躇いなく人としての一線くらい踏み越えてしまえるだろう。それ程までに目の前の少女は魅力的で理想的な姿かたちをとっていた。
少しの間。
もしかしたら“少し”ではなかったのかもしれないが、彼女を見つめている間は、私にとって数秒程度の時間にしか感じられなかった。
伏せられていた少女の目が再びこちらを見やる。
硝子玉を思わせる、透明度の高い、大きな瞳。
向けられた視線に応えようと目を合わせれば、より深いところまでを覗き込める、または覗き込まれるような感覚を得る。
私の記憶、感情、思念、何もかもが彼女に知られていくようで、同時に全てが彼女の中に吸い取られていくようだった。
ただ、そこに不快感や喪失感はない。むしろ、徐々に広がるその穴は少女と私がひとつになっていくことの証にも思えて、満足感さえ覚える。
私たちはこうして見つめ合うことをいくつも繰り返していた。もうはじめも思い出せないほど、いくつも。
私は知っている。
これは夢だと。私の破滅を誘うものだと。時間を重ねる度にあやふやになっていく私の感覚がそう告げている。しかしどうしたって今更戻れそうにないのだ。
思わせぶりに瞬きをする美しさが、ゆっくりと笑みを深めていくその美しさが、目覚めという選択肢を溶かしきってしまった。
ならばもういいだろう。たった二人きりの世界、私のためにこの完璧な少女が存在してくれるのなら。少なくとも、私はこの時間を“幸福”だと感じているのだから。例えそれが都合よく書き換えられたものだったとしても、私がそれを知ることはない。
自我が溶けきる、終わりまで。
甘美だった。
餌の食べ頃を待つ悪魔にとっても、その美しさに囚われた私にとっても。
悪夢を悪夢と認めないまま、私はその蠱惑的で純粋な瞳に魂を喰われていくのだ。
【君の目を見つめると】
回るもの。
誰の意思にも関わらず、世界のどこかで淡々と回り続けるだけの、二重もしくは三重に重なった細い針。たったそれだけの存在でさえ、今の私にとってはひどくおぞましくて憎いものに思えた。彼らが周回数を増やすたび、私は確実に時間が経過していることを知ってしまう。
あなたが終わりに近づいていくことを感じてしまう。
「また、何か考えていたの」
薄らと穏やかな微笑みをたたえて、あなたは壊れた柱時計を眺める私にそっと寄る。話す時に相手を見上げるのは、いつからか私の役目ではなく、車椅子に座るあなたの役になっていた。
日々、段々と石になっていくあなたの脚を見たくなくて、代わりに文字盤をじっと睨みつける。
「いいえ、なにも」
こんな機械が止まったところで何も変わるわけではないのに。そう理解していても、この針を再び動かす意味はないように思えた。この小さな家で時を告げるものは、あなたを含めてももう数えるほどもない。
あなたは私の視線の先を追うと、役目を終えたその家具を労わるように撫でた。
「止まっちゃったね。私より先に動かなくなるなんて。残念。あの鐘の音、好きだったんだけどな」
あなたはきっと私がこれを直すことがないとわかっている。それでも私に直接何も言わないのは、あなたなりの優しさなのだろうか。胸が痛かった。
古かったから仕方ないね、なんて笑いかけないで欲しかった。
確かに彼は、彼らは、あなたを起こす時間を教えてくれた。あなたと食事を囲む時間を教えてくれた。あなたと出かける時間を、お茶の時間を、眠る時間を教えてくれた。どれもなんてことはない日々の繰り返しで、かけがえのないものだった。
でも、だって、これは失われていく時間を示すだけで、あなたとあと何度こんな幸せを繰り返せるかなんてことは教えてくれないじゃないか。だから、だから。
「……ごめんね、ほら、そんな顔しないで。私は君といられるだけで十分だから」
いつの間にか零れていた涙を、私の頬からあなたの指がすくい取る。あたたかかった。
あなたみたいな人が呪われるべきじゃなかった。
「そろそろお茶の時間にしようか、それとも、散歩の方がいいかな。外に出るのは久々な気がするね。庭の花の調子はどう? 君がいつも水をあげてるの、知ってるよ。綺麗に咲くといいね」
頷く。頷く。頷く。
やさしい師匠。偉大な魔法使い。わたしのただ一人の大切な人。
あなたとの日々を緩慢に送る。進み続ける時間から目を背けて、規則的な右回りの針をこの手で折って。
外はきっと風が冷たいからと、あなたの脚をしっかりと覆うようにブランケットをかけ直した。
【時計の針】
形をなさない夢の輪郭がアラームの音で溶けていく。昨日の自分が設定した喧しい音を止めるために、枕元の携帯を手繰り寄せる。
午前六時。布団から出たくない。自分の体温の籠った、暖かでふかふかな塊がこちらを引き留めようと重くなっているような気さえする。一晩をかけて冷やされた部屋の空気を拒絶する。携帯を元の場所に戻し、近くに置いてあるリモコンを取って、エアコンを起動させる。それがやがてゴオオ、と温風を吐き出す音を聞いて、自分の判断は間違っていなかったと小さく確信した。
やるべき事はわかっていても、再びあの心地良い夢に戻りたいと布団に潜る。どうせ三十分後にはまたアラームがこちらを起こそうと電子音を鳴らすのだ。まだ時間はある。自分に言い訳をする間もなく、今この部屋でもっとも優しい寝具たちは瞼を閉じることを唆した。
自分の耳に入ってきた音をアラームだと認識するのに、三十分前よりは時間を必要としなかった。
ロック画面に表示された時間を見て、先程よりずっと暖まった部屋の空気を知って、幸せな時間というものはいつも一瞬だと悟る。渋々とまず上半身だけを起こし、数分をかけて名残惜しさを感じつつ、ベッドからようやく立ち上がる。
洗面所に移動する前にテレビの電源をつけ、いつもと同じ情報番組をBGM代わりにする。
空調の効いていない洗面所と冷えた蛇口の水に寒さを訴えながら歯を磨く。顔を洗う。指先の温度を犠牲にして目を覚ますことが出来た。
今日は燃えるゴミの日。前日の夜に出してしまえばいいとわかってはいるものの、何だかんだで毎度忘れてしまうのだ。
指定のゴミ袋に一通り詰め込んで、寝間着から適当な服に着替えて、家の鍵をポケットに入れて玄関の戸を開ける。
文明の利器によって自分のために作り上げられた適温から突然、自然のあるべき温度に晒される。羽織った上着をもう少し厚いものにするべきだったかな、などと考えながら、結局はゴミ捨てに行くだけだからと肌寒さを諦めた。
膨らんだゴミ袋を片手にアパートの廊下を歩き、階段を下りる。ふと自分が吐き出した息が白く立ち上っていくのに気が付いた。
子供の頃はこれが楽しくて仕方がなかったのを覚えている。ランドセルを背負って、防寒着に包まれて、はっはっと短く息を吐き出すことを繰り返したかと思えば、今度は汽車のように長く太く煙の真似事をした。横を歩く友達に見せて笑った。
冬の朝は嫌いじゃない。大好きだと言えるほど寒さに強いわけでも、待ち侘びている程でもないけれど、何だか青の白んだ空が、呼吸をする度に肺を冷やしていく空気が、どの季節よりも透き通った綺麗なものであるような気がする。
ゴミを出して、特に意味もなく深呼吸をした。寒さが喉を通っていく。肺に落ちて、やがて体の内側がひんやりとするのを味わった。もうそんな季節だった。
思えば日が落ちるのもいつの間にかすっかり早くなっていた。出掛ければ、目に入る店々がクリスマスの飾りつけをして限定の商品やらメニューやらを掲げていた。街ゆく二人組が仲睦まじく手を繋いで会話をする光景さえもがイルミネーションを彷彿とさせた。
微々たる変化は日々起こっているのだろうが、こうして以前との差が歴然とならなければ気が付けない。
去年の自分はこの冷たい空気を吸ってどんなことを考えていただろうか。あっという間だったような気もするのに、日々は確実に過ぎていて思い出せない。
ただ、きっと自分は来年もこうして季節の変わり目を感じるのだろう。一年なんてそんなものだ。多分。
それでも、クリスマスまではまだ少し遠い気がする。
始まったばかりの今日を、いつも通りの生活を再開するため、アパートに向けて踵を返した。
【冬のはじまり】