匿名様

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4/6/2024, 2:17:41 PM

甘美。
この時間を表す言葉は正しくそれに違いなかった。
かち、かち、と一定の間隔を刻んで揺れる秒針がこの静かな空間を守っている。
机を挟んで向かい合う椅子が二脚。頬杖をつき、曖昧でどこか無機質な微笑みを浮かべる少女と私は相対していた。
ここにはこれ以上何も無い。何かが生まれることも、崩れていくことも、何も。ただ、私と少女がいる。

「退屈?」

これが彼女が発した最初の言葉だったような気もするし、以前に何か二言三言会話を交わしたような気もする。全ての感覚がはっきりとせず、しかし視界だけはこれが現実であると信じ込みそうになるほど晴れきっていた。
私は少女の問いかけに首を横に振る。

「そう」

返答が満足いくものだったのか、それとも全くの予想通りだったのか。ただの人間に過ぎない私には彼女の感情を正確に読み取ることなどできないが、少女はそれ以上言葉を続けようとはしなかった。
その代わり、長い睫毛に縁取られた目をそっと伏せる。光源もわからぬ光がきらきらと繊細な毛束に反射して煌めいた。
息をつくほどの美しさ。
意識しなくとも勝手に視線が吸い寄せられ、他のこと全てが目に入らず、どうでもよくなる。美しさは罪であると言うが、確かにこれを独り占めできるのなら、躊躇いなく人としての一線くらい踏み越えてしまえるだろう。それ程までに目の前の少女は魅力的で理想的な姿かたちをとっていた。

少しの間。
もしかしたら“少し”ではなかったのかもしれないが、彼女を見つめている間は、私にとって数秒程度の時間にしか感じられなかった。
伏せられていた少女の目が再びこちらを見やる。
硝子玉を思わせる、透明度の高い、大きな瞳。
向けられた視線に応えようと目を合わせれば、より深いところまでを覗き込める、または覗き込まれるような感覚を得る。
私の記憶、感情、思念、何もかもが彼女に知られていくようで、同時に全てが彼女の中に吸い取られていくようだった。
ただ、そこに不快感や喪失感はない。むしろ、徐々に広がるその穴は少女と私がひとつになっていくことの証にも思えて、満足感さえ覚える。
私たちはこうして見つめ合うことをいくつも繰り返していた。もうはじめも思い出せないほど、いくつも。

私は知っている。
これは夢だと。私の破滅を誘うものだと。時間を重ねる度にあやふやになっていく私の感覚がそう告げている。しかしどうしたって今更戻れそうにないのだ。
思わせぶりに瞬きをする美しさが、ゆっくりと笑みを深めていくその美しさが、目覚めという選択肢を溶かしきってしまった。
ならばもういいだろう。たった二人きりの世界、私のためにこの完璧な少女が存在してくれるのなら。少なくとも、私はこの時間を“幸福”だと感じているのだから。例えそれが都合よく書き換えられたものだったとしても、私がそれを知ることはない。
自我が溶けきる、終わりまで。

甘美だった。
餌の食べ頃を待つ悪魔にとっても、その美しさに囚われた私にとっても。
悪夢を悪夢と認めないまま、私はその蠱惑的で純粋な瞳に魂を喰われていくのだ。


【君の目を見つめると】

2/7/2024, 7:56:07 AM

回るもの。
誰の意思にも関わらず、世界のどこかで淡々と回り続けるだけの、二重もしくは三重に重なった細い針。たったそれだけの存在でさえ、今の私にとってはひどくおぞましくて憎いものに思えた。彼らが周回数を増やすたび、私は確実に時間が経過していることを知ってしまう。
あなたが終わりに近づいていくことを感じてしまう。

「また、何か考えていたの」

薄らと穏やかな微笑みをたたえて、あなたは壊れた柱時計を眺める私にそっと寄る。話す時に相手を見上げるのは、いつからか私の役目ではなく、車椅子に座るあなたの役になっていた。
日々、段々と石になっていくあなたの脚を見たくなくて、代わりに文字盤をじっと睨みつける。

「いいえ、なにも」

こんな機械が止まったところで何も変わるわけではないのに。そう理解していても、この針を再び動かす意味はないように思えた。この小さな家で時を告げるものは、あなたを含めてももう数えるほどもない。
あなたは私の視線の先を追うと、役目を終えたその家具を労わるように撫でた。

「止まっちゃったね。私より先に動かなくなるなんて。残念。あの鐘の音、好きだったんだけどな」

あなたはきっと私がこれを直すことがないとわかっている。それでも私に直接何も言わないのは、あなたなりの優しさなのだろうか。胸が痛かった。
古かったから仕方ないね、なんて笑いかけないで欲しかった。
確かに彼は、彼らは、あなたを起こす時間を教えてくれた。あなたと食事を囲む時間を教えてくれた。あなたと出かける時間を、お茶の時間を、眠る時間を教えてくれた。どれもなんてことはない日々の繰り返しで、かけがえのないものだった。
でも、だって、これは失われていく時間を示すだけで、あなたとあと何度こんな幸せを繰り返せるかなんてことは教えてくれないじゃないか。だから、だから。

「……ごめんね、ほら、そんな顔しないで。私は君といられるだけで十分だから」

いつの間にか零れていた涙を、私の頬からあなたの指がすくい取る。あたたかかった。
あなたみたいな人が呪われるべきじゃなかった。

「そろそろお茶の時間にしようか、それとも、散歩の方がいいかな。外に出るのは久々な気がするね。庭の花の調子はどう? 君がいつも水をあげてるの、知ってるよ。綺麗に咲くといいね」

頷く。頷く。頷く。
やさしい師匠。偉大な魔法使い。わたしのただ一人の大切な人。
あなたとの日々を緩慢に送る。進み続ける時間から目を背けて、規則的な右回りの針をこの手で折って。
外はきっと風が冷たいからと、あなたの脚をしっかりと覆うようにブランケットをかけ直した。


【時計の針】

11/29/2023, 2:35:48 PM

形をなさない夢の輪郭がアラームの音で溶けていく。昨日の自分が設定した喧しい音を止めるために、枕元の携帯を手繰り寄せる。

午前六時。布団から出たくない。自分の体温の籠った、暖かでふかふかな塊がこちらを引き留めようと重くなっているような気さえする。一晩をかけて冷やされた部屋の空気を拒絶する。携帯を元の場所に戻し、近くに置いてあるリモコンを取って、エアコンを起動させる。それがやがてゴオオ、と温風を吐き出す音を聞いて、自分の判断は間違っていなかったと小さく確信した。
やるべき事はわかっていても、再びあの心地良い夢に戻りたいと布団に潜る。どうせ三十分後にはまたアラームがこちらを起こそうと電子音を鳴らすのだ。まだ時間はある。自分に言い訳をする間もなく、今この部屋でもっとも優しい寝具たちは瞼を閉じることを唆した。

自分の耳に入ってきた音をアラームだと認識するのに、三十分前よりは時間を必要としなかった。
ロック画面に表示された時間を見て、先程よりずっと暖まった部屋の空気を知って、幸せな時間というものはいつも一瞬だと悟る。渋々とまず上半身だけを起こし、数分をかけて名残惜しさを感じつつ、ベッドからようやく立ち上がる。
洗面所に移動する前にテレビの電源をつけ、いつもと同じ情報番組をBGM代わりにする。
空調の効いていない洗面所と冷えた蛇口の水に寒さを訴えながら歯を磨く。顔を洗う。指先の温度を犠牲にして目を覚ますことが出来た。
今日は燃えるゴミの日。前日の夜に出してしまえばいいとわかってはいるものの、何だかんだで毎度忘れてしまうのだ。
指定のゴミ袋に一通り詰め込んで、寝間着から適当な服に着替えて、家の鍵をポケットに入れて玄関の戸を開ける。

文明の利器によって自分のために作り上げられた適温から突然、自然のあるべき温度に晒される。羽織った上着をもう少し厚いものにするべきだったかな、などと考えながら、結局はゴミ捨てに行くだけだからと肌寒さを諦めた。
膨らんだゴミ袋を片手にアパートの廊下を歩き、階段を下りる。ふと自分が吐き出した息が白く立ち上っていくのに気が付いた。
子供の頃はこれが楽しくて仕方がなかったのを覚えている。ランドセルを背負って、防寒着に包まれて、はっはっと短く息を吐き出すことを繰り返したかと思えば、今度は汽車のように長く太く煙の真似事をした。横を歩く友達に見せて笑った。

冬の朝は嫌いじゃない。大好きだと言えるほど寒さに強いわけでも、待ち侘びている程でもないけれど、何だか青の白んだ空が、呼吸をする度に肺を冷やしていく空気が、どの季節よりも透き通った綺麗なものであるような気がする。
ゴミを出して、特に意味もなく深呼吸をした。寒さが喉を通っていく。肺に落ちて、やがて体の内側がひんやりとするのを味わった。もうそんな季節だった。

思えば日が落ちるのもいつの間にかすっかり早くなっていた。出掛ければ、目に入る店々がクリスマスの飾りつけをして限定の商品やらメニューやらを掲げていた。街ゆく二人組が仲睦まじく手を繋いで会話をする光景さえもがイルミネーションを彷彿とさせた。
微々たる変化は日々起こっているのだろうが、こうして以前との差が歴然とならなければ気が付けない。
去年の自分はこの冷たい空気を吸ってどんなことを考えていただろうか。あっという間だったような気もするのに、日々は確実に過ぎていて思い出せない。
ただ、きっと自分は来年もこうして季節の変わり目を感じるのだろう。一年なんてそんなものだ。多分。

それでも、クリスマスまではまだ少し遠い気がする。
始まったばかりの今日を、いつも通りの生活を再開するため、アパートに向けて踵を返した。


【冬のはじまり】

11/28/2023, 3:21:12 PM

空気を震わせるブザーの音。ざわめきの静まる会場。無音に込められた期待と緊張を全身で感じとる。
ゆっくりと上がっていく緞帳も、暗闇から一転、網膜に焼き付く程にこちらを照らす照明も、全てを舞台に引き込む劇的で叙情的な音響も、どれもがわたしの愛すべき世界だった。

何度も唱えた台詞。指の先まで間違いのない動き。わたしは、わたし以外の何者にだってなれるのだ。
観客の目を惹き付けて、ひとり舞台を踊り尽くす。息が切れて、声が枯れて、足が棒のようになり地に伏せるまで。床が抜けて、照明器具が落下して、悲劇的にこの命が尽きるまで。わたしはただ、いつか見た第四の壁の向こう側に立っていたいだけ。台本に描かれた、現実では無いどこかの景色を見せていたいだけ。
どこからか聞こえる低い咳払いの音も、退屈さを隠そうともしない寝息のひとつも、隣合う席と話し合う囁き声も存在しない。聞こえない。
これはわたしの、わたしのための舞台だから。

真正面、上手から下手まで全てを美しく見渡せる一等の席で、わたしが吸い込まれるようにこちらを観ている。
台詞に織り込まれた小粋な冗談と大袈裟な身振りに笑みを零し、大胆でロマンチックな恋物語に胸を高鳴らせ、恐ろしく急変する展開に息を飲み、変えることのできない運命に涙を流すわたしがいる。
物語を全て知っていようとも、時間の許す限り何度だってチケットを買う。幕が上がるその時まで、弾けそうなほどに心臓を動かしている。
目いっぱいに伸ばす手も届かない、けれど目の前に存在する別世界に痛いほど焦がれている。

時間を重ねる度に変貌する舞台。それぞれが巻き戻すことの出来ない、たった一回限りの開場。
所狭しと書き込まれた台本のページがめくられていく。時間を惜しみなく掛けて組み上げた舞台装置が崩れそうなほど揺れている。盛り上がる音楽が何もかもを掻き消そうとしている。私を照らし出すスポットライトが白く飛んでいる。
止めどない拍手喝采。割れんばかりの騒音。立ち上がる観客たちの中央に座るわたしだけが何も出来ず目を見開いている。
違う、違う、嫌だ、行かないで、待って、まだ!
どちらのわたしの叫びも聞き入れてくれない緞帳が重く、無慈悲に下りていく。台詞は続いている。舞台の上に立つわたしだけが暗闇に残されていく。でたらめな続きを作っても、延長などされるはずもないというのに。
分厚い幕の向こうでざわめきが復活する。客席の明かりが点灯していく。わたしだけが永遠を望んで動けないままでいる。再び緞帳が上がる時をここでずっと待っている。
終演のブザーをどうか鳴らさないで。


【終わらせないで】

8/12/2023, 2:46:20 AM

夏空がよく似合う。
この季節には似つかわしくないような白い肌も、ふわふわと広がる波打った細い髪も、あの不気味なほどに無機質で平坦に伸びる青色の中では一際浮かんで見えた。
今日は快晴だ。
少女が駆け回るにはいささか強すぎる日差しが地面を焦がしている。庭の向こう側で向日葵が揺れた。
気遣いで差し出した日傘は、不自由になるからと断られたのだったか。代わりに送ったつばの広い麦わら帽子は随分と気に入ってくれたようだ。
淡い花柄のサマードレス、ほんの少し大人ぶるローヒールサンダル。花壇を手入れする最中に摘んだ、いくつかの花をその帽子に差してやれば、少女はこちらを見上げてはにかんだ。
細かな網目状の影が落ちる柔らかな頬。控えめなそばかすと、ひんやりと透き通った瞳がずっと私の頭に棲みついている。楽しそうに口角の上がった唇から紡がれる音階の名前が思い出せない。けれどずっと懐かしさが記憶を叩いている。
青々と茂る植物たち。芝生を踏む音。じりじりと景色を揺らす陽炎。手に持ったホースから弧を描いて流れゆく水がそれら全てを濡らす。
暑い、日だった。

手が滑る。盛大に足にかかった冷たさに気が付いた時、直射日光が見せたいつかの情景は消え去っていた。
足元に落ちた花を拾う。眩しくひらめくスカートの裾が、くらくらとする視界の端に映った気がした。
ああ、せめて帽子くらいは被っておくんだった。


【麦わら帽子】

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