「実は私、月から来たんだ」
星一つ輝かない暗闇のベランダ、彼女はいかにも深刻そうな顔を作ってそう言った。
空には唯一、普段よりも色の濃い月だけが不自然なほど綺麗に上っている。
「随分突飛な冗談だね、かぐや姫様?」
わたしは手すりに身を預け、肺を濁す煙を一つ吐いては彼女をからかって目を細める。白く浮かんだ曖昧な模様は、ささやかな風に吹かれて消えた。
何にもない、たった二人の狭い空間。ちかちかと明滅する都市の光はどこか遠い世界のようだった。背後で透けるカーテンの向こう、室内に置いてきた温白色の光がこちらを名残惜しそうに照らしている。
彼女はわたしの顔をしばしじっと見つめると、「流石に信じないか」と目を伏せて笑った。
「そりゃそうだろう。酔ってるのかと思ったけど」
「お酒飲めないの知ってるでしょ」
「ああ」
「……なんとなく。何となく言ってみただけだよ」
その言葉が本物だとしても、偽物であったとしても、どちらが真実なのかをこちらに悟らせない彼女の雰囲気は、わたしにとっての杞憂の原因であり、同時に彼女を魅力的に思わせる一面だった。
夜は好きだ。日中の苦悩を放り出して二人で寄り添い合える夜なら。彼女が居れば充分だと、半分も減っていない煙草を灰皿の水に押し込んだ。
「もういいの?」
「きみが月に帰るまでは生きてたいなと思って」
「そっか」
それが遠い未来だと信じている。そうであって欲しい。決して有意義とは呼べないこの時間を出来るだけ続けたいと願うのは、きっと自分だけではないと。
だからいつ帰るのかは聞かなかった。
簡単な好意の伝え方さえ素直に実行できない代わりに、遠回しな月並みの言葉を零す。
彼女が本当に宇宙人なら、秘められた意味に気が付かないでいてくれるだろうか。純粋な賞賛に聞こえるだろうか。いつか別れる運命ならば、その方がいい。
ふふ、と笑う彼女が可愛らしくて、わたしは照れ隠しのように目を逸らした。
『きみの故郷は綺麗だね』
【月に願う】
私とあの人は高校生の時に出会いました。
ええ、同級生です。その当時、クラスは違いましたが。
今思い返せば一目惚れだったのかもしれません。あの人をはじめて見かけた時、すごく綺麗な人だと思いました。背筋が伸びていて、耳触りのいい声で。教室移動中に窓から教室内を盗み見る程度しかあの人のことは知りませんでしたが、毎回その姿は強く印象に残っていました。
直接話すきっかけが出来たのは次の学年に上がってからです。運良くクラス替えで同じクラスになれたんですよ。私は舞い上がって、これは運命なんじゃないかとさえ思えてしまいました。それまでと比べたら関係値を築く機会は段違いに多くなりますから。
実際、私はあの人と在学中に間違いなく友人と呼べる、いえ、もう少しだけ上の距離間を得ることが出来たんです。何気ない雑談から真面目な相談、一人では抑えておけない秘密の話。私はそれらを聞く権利を得ました。休日に駅前へ遊びに行ったこともありました。どれも思い出深い青春です。忘れることなんてできるはずもないでしょうね。
ご存知の通り、あの人とは進学先も同じでした。これは偶然ではなく、私があの人と合わせて選んだ結果です。
ええと……はい、その、お付き合いを始めたのもその後ですね。改めて言葉にするとどこか恥ずかしくもありますが……。告白は私からでした。休日、いつも通りに遊びに出かけて、帰り際に好きだと伝えたんです。
いつか言おう、いつか言おうとインターネットで理想的なシチュエーションやら勇気の出し方やらを検索して、それらを事前に計画立てると余計に緊張してしまうと諦めて。結局あの人と過ごして安心し、高揚するときめきを持ったまま自然に、自分の言葉で伝えました。
そうしたらあの人は驚いた顔をして、それから甘酸っぱくはにかんで、自分もだと答えてくれたんですよ。
その時の喜びといえば、言葉では表現しきれないほどでした。だってその後は夢見心地で、どうやって自分の家に帰ったかさえまともに覚えていないんですから。
ええ。これが私の恋物語です。勿論、ほんの一部に過ぎませんが。あの人への思いの丈を全て語るには、あまりに私の持つ言葉が足りないのです。
自分のことながらよくできた、それこそ作り話のような展開だとは思います。それでも、全て私の記憶にある本当のことなんです。恋をすると世界が色づいて見えるというのも、想い人のことを考える度に胸があたたかく、時々ささやかな痛みを持って複雑にやがて幸せを構成していくのも、どれも本当のことでした。
出会ってからずっとあの人のことを見てきましたが、今でもあの人について知らないことはあります。全てを知りたいと思う反面、全てを知ってしまったら何か大事なものが崩れてしまう気がしてならないんです。
恋とは多少夢を見ているくらいがちょうどいいのかもしれません。難しいものですね。
ああ、そういえば。あの人、最近誰かにつけられている気がすると言っていました。怖い人もいるものですね。
え? ええ、大丈夫です。私ができる限りそばに居て、安心させてあげられればと思います。
【恋物語】
るらった、るらった。
ご機嫌な鼻歌が雨音に混じり、町も人も寝静まった暗い夜道に落ちては水たまりをつくる。
無邪気なあの子はお気に入りの長靴を履いて、できた水たまりからまた別の水たまりに飛び移って遊んでいる。ぴちゃん、ぴちゃんと跳ねる水滴が点滅する外灯の光を取り込んだ。
あの子はだあれ?
どこから来たの?
ひそひそとささやく声が暗闇の空白から漏れだすけれど、あの子はなんにも気にしない。歌声は全てをかき消して、眠りへと誘った。
るらった、るらった、すてっぷ、じゃんぷ。
ひと際大きな水たまり、ざぶんとあの子を呑み込んだ。誰も見てない、誰も知らない。
時計の針は二十四時を超越している。世界を打つ神様の涙が、地面を揺らめく鏡に作り変えた。
その表面にあの子はいるの?
しっとり濡れた髪を下げて、片手に持った傘を地面に調子よくついて。いつもは怒られることだって今ならできる。重くなる瞼を擦って、壁一面に映るカラーバーを目に焼き付けて。この時間は永遠だと錯覚し続ければ、いつしか嘘は誠になる。
るらった、るらった。自由な時間、不安な時間。
学校も、会社も、お店も、遊園地も、今は名前を失って、ただそこにあるだけ。深夜営業なんてしてないよ、もう眠ったほうがいい。
雨は止まない。明日の朝まで続くそう。
なら雨が止む日なんてずっと来ないね。
水の中からぶくぶくと、おかしなあの子の声がした。
どこかの誰かは真空の宇宙さえ青ざめるほどの冷たい空気を肺に入れて、どこからかにじり寄る不穏な気配をやり過ごそうと身を潜める。
光とあたたかさを運ぶあの火の玉が顔を見せるのはもう幾分か先、あの子が溶けて消える時。
このままがいいね。このままでいい。
それとも、早く消えて欲しい?
あの子は真夜中。ここは仮初の永遠。
言いつけを破ってこんな時間にも寝ないわるい子は、静寂のお化けに連れていかれるんだって。
るらった、るらった、らんらんらん。
あの子に「おはよう」を言う日はずっと来ない。
雨と鼻歌の合奏中、1khzの正弦波が遠くから聞こえていた。
【真夜中】
愛を食って生き長らえている。
それは他者から自分に与えられた愛であり、あるいは全く別の方向へ向けられる愛から零れ落ちた破片だった。
それを栄養とし、愛だと認識することはなかった。
「この世は愛が全てなんです」
盲目的に渦巻く目を細め、正面に座るその人は吐き気を催すほどの多幸感を振りまきながら言った。
「愛によって生まれ、愛に振り回されて生き、愛のせいで死を迎えるのです」
いくら耳を塞ごうと、反論の言葉を捻り出して突き刺そうとも、その人は聞く耳など持たず、いかれた声でこちらの思想を塗り潰そうと笑っている。これでさえ愛だとほざくのはその人があまりに無知で純粋な証拠なのだろうか。
「愛されないというのは自分の方へ矢印が向けられていないというだけの話です。そう嘆き、憤っている間にも誰かから別の誰か、もしくは何かへと愛は向けられています。愛されたいと願ったあなたはそれらの愛の副産物で構成されているのです。」
「愛が、愛から派生した感情が生命を巡らせて、世界を回しているのです。それに、気が付けていないだけ」
万病に効く薬などありはしない。精神論なら尚更だ。
ただ、愛という感情・状態への愛に全身を浸けたその人は、これこそが万能であると信じて疑わない。
目の前で湯気を立ち上らせるティーカップの中、幾重にも色が重なり合った、濁る透明な液体が毒々しく甘い香りを漂わせていた。
人が定義付けしきれない愛のようだった。
「愛が人によって、人のためだけに存在するものだと誰が証明できるでしょう。ひとりの持つ愛がたった一つだと誰が言ったでしょう」
「自身の歩んできた道に顔を覆う誰かは不幸に愛されているのでしょう。その生命を呪う誰かは死と孤独に愛されているのでしょう。あなたが何者であろうと愛はついて回ります。だからこそ世界は変化するのです。愛にはそれだけの力がある」
宗教じみている。しかし神となる者さえ話に聞くには愛に掻き乱されているのだから、何も間違いではないのかもしれない。強いて言うならば途方もないその感情に名前をつけたことが間違いだった。
その人は自分の手元にあるティーカップを優雅に傾けた。得体の知れないその中身をよく見知った風に口内で転がしては、至上の美味を味わい目を伏せた。
「私はあなたを愛しています」
驚きはしなかった。心のどこかでそう言われることを勘づいていた。
「恋愛、親愛、敬愛、友愛、慈愛……何と分類しようとこの事実だけは変わりません。私は他ならぬあなたを生かし、殺す愛の一部でありたいのです」
愛でいかれているからこそ、その願望はどこまでも純粋だった。深く曖昧で信用の置けない感情はもう拒否することさえ馬鹿らしい。そもそもこの告白に返事など必要なかった。ただ、その人はこちらに向けた愛を持っているという事実の宣言でしかないのだから。
どんなに微細だろうと関わりを持った以上、その人は、その人の愛は、こちらの生に影響を与えるのだろう。それが自分にとって利益になりうるかはまだ分からないが。いや、きっと一生気が付くことはないのかもしれないが。
愛という概念を何よりも愛しているその人ならば、愛が引き起こす可能性のある、全ての事象を可能としてしまうのだろう。そこに倫理や道徳など関係は無い。
愛のみがある。
意を決してカップの中身を流し込む。
無意識に消費し続けた、数多の誰かの愛の味は思い出せなかった。知らなかった。
結局は断言できないものなのだ。
世界を構成し続ける全ての要素が愛に関連していると信じるその人にとって愛は万能に違いなく、そんな風に考えたこともない自分には、愛というものはせいぜい生きる手助けをする程度のものに思える。
ただ、それだけ。
【愛があればなんでもできる?】
目眩がするといつも貴方が見える。
貴方は私の後ろから肩を抱いて、私に何かを囁きかけるのだ。これは正しい、あれは違う、けれどきみは何も悪くないと、慈愛に満ちた静やかな声が鼓膜を、頭の中を震わせる。
私は痙攣する手で自分ごと貴方を抱きしめて許しを乞う。許しが必要となるようなことなど何もしていないはずなのに、不安が止まらない。貴方に嫌われたくなかった。私の起こした些細な物事で貴方の機嫌を損ねてしまう可能性を何度も思い浮かべては、恐怖に呑み込まれそうになる。
私を払い除ける手が、非難する目が、刺々しい声が鮮明に想像されて、その度に涙で視界を歪ませながら何度も貴方の名前を呼ぶ。そうすれば、陽炎のように揺らめく貴方は私を白いその腕で抱いて安心させてくれた。貴方は私を愛してくれていた。
「大丈夫」
(全て後の祭りだった。いくら懺悔しようとも本当の許しを得ることなどできない。
一時の激しい感情が引き起こした悲劇はもう既に手の届かない過去の遺物となってしまった。
目を閉じた。
暗闇の中、まだ貴方は微笑んでいる。大丈夫だ、だいじょうぶ、まだ貴方はここにいる。そう言い聞かせ続けた。透き通るような貴方の声が聞こえる。ひんやりとした貴方の指先の感触が伝わる。貴方の目が、目が。私を見つめている。覚えている。
都合の悪い事実は忘れることにした。)
「すきだよ」
何度も伝えた想い。貴方から返ってくることを待ち侘びた言葉。やっと聞けたそれはひどく不安定で曖昧で。後ろを振り返り見た貴方の顔は、煙のように虚しく濁り霞んでいた。
ああ、ちがう、ちがう。私が欲しかったのはそんなに薄っぺらなたった四文字の台詞ではなくて、貴方の心も生命も感じられないあからさまな作りものじゃなくて、ああ、満足など一瞬のことだったと。
私が上手く自分を誤魔化すために生み出した夢は、現実との齟齬と過去の私に殺された。知っている。貴方はこんなことを言ってはくれないのだ。
あなたがわらっている。
責め立てるように、あわれむように、嘲るように。
汚れの落ちない手をぶら下げて、自業自得の受け止めきれない現状を嘆き崩れ落ちた。
【後悔】