見つめられると
数学教師が何やら複雑そうな公式を書き連ねていく時に聞こえる心地よいリズムは、一つ前の授業から妙に耳に残っているバルチック艦隊という単語から、仮想の戦闘風景を夢想させる。
弾丸の雨の中、軍服を着た髭のおじさんたちが何やら頑張っている。東郷平八郎だっけ?大塩平八郎だっけ?どっちか忘れたけど、なんかそんな感じだった。
頭を下さないことがバレないコツなのだが、今日ばかりは耐えられそうにない。惰性で過ごして時計を見ていなかった、昨晩の夜更かしが悔やまれる。
教室には微かにバーベキューソースの香りが漂っていた。チョークの音が止んだ。
私はまだ寝ていません。
私は無実です。
はいすみませんおきます。起きますから。
ないものねだり
クランベリー畑のある丘の上で、金切り声を上げる人が一人。
フランシス・ベーコンの絵画を抱えながら、床に落ちた抜け毛を一本一本、愛おしそうに拾い集める人が一人。
通勤電車を待っている時に、ふと線路に飛び出てみた人が一人。
哲人は仙人に銃を向け、神は我が子に牙を向け。湾曲したルービックキューブを、夜更かししながら、解きながら。
本を読む。
ルービックキューブの解き方は知らない。
ところにより雨
私ごとですが4月から社会人でして。引っ越しをして数日。まだ生活必需品も整っていない、収納できていない過去の残骸で足の踏み場のない環境の上を歩きながら、どうにかこうにか生活をしています。
本棚がないので、実家から持ってきた本は床に並べるしかありません。クローゼットが思いのほか小さかったので、夏用のシャツを入れるスペースがありません。
洗濯機への給水方法が分からず四苦八苦しました。実家のコンロとは全く違うキッチンを使い、久しぶりに唐揚げを焦がしました。
引っ越して一人暮らしを始めると誰とも接する機会がないので、自分に起こっている事柄のすべてが隔絶された自分の周りにある別空間のことのように感じられます。
本日は転入届のために市役所に行きましたが、広い範囲が生憎の天気で、私もその下におります故、憂鬱な今日この頃です。
特別な存在
山吹色の叢を掻き分けて飛び出した虎を一眼見た時、それが親友であることに気がついた。風貌が似ているわけでもなく、自らの正体を示すような仕草を見たわけでもない。そもそも夜の森は暗く、相手が何なのかもわからない。ただどこか見覚えのあるその独特な出立ちを通して、殆ど勘のような単調な思考回路が、彼が李徴子であることを絶えず私に知らせていたのだ。
久々の親友との再会に急いで駆け寄ろうとするが、やめた。李徴子がそれを望んでいないことは分かっている。しかし、踏みとどまり、向こうの暗がりに目を遣ると、大きな影がただひたすらに震えていた。
親友は自らが生み出した珠玉の詩を一つ読んだ。凡庸とまでは言わないものの、傑作というには今一つ足りない詩だった。特段具体的な改善点は見られないものの、それが親友が遺す最後の詩であったとしても、私の心を強く打つことはなかった。
やがて親友は草むらの中に消え、今や猛獣の咆哮だけが聞こえるのみである。
月夜に爆ぜた野分の上で、私は部下の元へ引き返す他なかった。
二人ぼっち
君達がこれを読んでいるのなら、私は約束を守れなかったということなのだろう。
未来の私が申し訳ない。しかし、私は最後まで争い続けたのだ。君達から離れて行動する、この決断を悔いたことはない。今この手紙を書いてる時も、たった一人で広野に旗を立てた時も、少々自分勝手かもしれないが、これは本当のことだ。
さて、君たちもうすうす気づいていたと思うが、私は病気でもう長くなかったのだ。詳しいところは私にも分からないが、恐らく何か、肺とかそれに準じた臓器に異常が起きたのだろう。正直なところ、私が旅立つ時には、これが最後の希望になることを予見していた。しかし、それを君達には打ち明けられなかった。私が弱かったのだ。
これを言い訳にするつもりはみじんもないが、結果として君達を裏切った形になったことを、心の底から申し訳なく思っている。
この手紙を書いていると、どうもセンチメンタルになってしまって敵わないね。
この辺りには何もなかっただろう。私も色々探さくしたのだが、結局めぼしいものは見つからなかったよ。
この世界はもうかつての姿に戻ることは永劫ないのかもしれない。君たちは覚えていない、かつての景色を見せることが、私の夢だった。私の生きがいだった。
この手紙があった場所からまっすぐ見たところから、ちょうどおしりのような形になってる山が見えるだろう。あの向こうに街のような影があったので、これからそっちに向かってみようと思う。ただ、身勝手な我儘で申し訳ないのだが、君達が遠くに行くのなら、逆方向を目指して欲しいと思う。私はもう長くはないが、もしかしたら、私達が行く末で、何か奇跡が起こるかもしれない。天変地異やらなんやらが蔓延ってるのだから可能性は大いにあるだろう。そうしたら、世界の裏側まで歩いて、そこで私と再会できたら、ドラマチックだと思わないかい?
花壇の前で手を合わせた。
倒壊した街並みを背景にした赫い斜陽に向かって、手を合わせて、目を瞑る。それが私の日課だった。
置かれていたはずの地蔵も見当たらない路肩の向こう。廃墟になった教会を散策していると、どこかから泣き声が聞こえた。瓦礫を掻き分けてみると、そこには一つの汚れた布で大切に包まれている双子がいた。
それが君たちとの出会いだった。
君たちの存在が、私の救いだった。