お金より大事なもの
郵便受けを確認するが、案の定何も届いていない。ビール瓶が詰まったレジ袋は重く、段差を上る動作に揺れる中身が、年老いた膝を打ち砕いていく。とは言えまだまだ年齢としては若い方なのではあるが、このようなことを言っている時点でもう若者ではないのだろう。
安直なヨーロッパ調の錆びた手摺。小石が剥き出しになった階段。大きく軋むわけではないものの妙に不愉快な振動を伴って開く木製の扉。汚れたシンクが取り付けられた薄暗い廊下を歩く。建物の隙間から差し込む淡い光が、テラテラとした滑らかな床材に反射している。四畳一間の寝室に、薄汚れた原稿だけが転がっている。
パソコンを買う勇気もなく、後一歩踏み出せないうちに買う金も無くなった。毎月のように紙を買う。
袋を下ろしたその手で早速買ってきたビールを飲むが、温い。
もう大学生になっているであろう甥っ子の記憶の中での姿とちょうど同じ背丈の冷蔵庫に、開けっぱなしのままのカンビールを入れる。冷蔵庫を閉めると途端に暗くなったように感じる。
磨りガラスの窓を開けて精一杯の夕陽を取り込んだ部屋で、今日が曇りじゃなくてよかったと考える。書きかけていた原稿の続きを綴る。
机はないので床で描く。
絆
銃声が響いた。日常が終わった。
普段なら耳を澄まさずとも聞こえるはずの喧騒もなく、全てを上から塗り潰したそれは、空砲だった。
緊張で静まり返った大地に銃声が波紋状に広がり、周りで行く末を見守っていた観客は、皆にそれが伝播したかのように思い思いに叫んでいた。
銃の持ち主からできるだけ遠ざかろうと走る。我先にと駆け抜ける何者かを横目に、悲鳴を横切って、砂を蹴った。地面は硬く、柔らかかった。風は微妙に向かい風だった。
手に持った赤い筒を、仲間に手渡すまで止まれない。
汗が右目に入った。
風で砂が舞っている。
実況席の前を駆け抜けて、並んだスピーカーを追い抜いて。まだ銃声が反響している熱暴走を握りつぶして。
体を打ちつける何かを掻き分けた先で、友人が手を後ろに出して待っていた。
ああ、今のところは三位か。
自分の息遣いが聞こえた。
無責任に、これなら大丈夫だろうと思った。
テイクオーバーゾーンを抜けた後、観客になって、叫ぶ。
大好きな君に
拝啓、大好きな君に。
放課後の教室で雑巾を絞った時、夕焼け空を透かした妙な色味のカーテンが作る影に隠れたそれを、いまだにずっと大切にしています。
階段の踊り場で転んで、リコーダーを落として急いで拾ったこともありました。廊下を突き抜ける風に合わせて、無限にあいこになるじゃんけんを繰り返して、ケタケタと笑っていたこともありました。オリジナルの小説とイラストを丁寧に書き殴った複数冊のノートは、もう燃えて無くなっているのでしょう。しかしそのずっと前の話。だれかの置き傘の一つが、あなたの手に渡りました。私はそれがとても憎かった。
公園の轍を通って枯れ葉を踏むだけで、靴底に張り付いた憂鬱な感情ばかりが停滞しているこの頃です。
敬具、昔取り憑いていた背後霊より。
ひなまつり
撮影してみた怪光線は、現像したら映らなかった。よだかの星が落ちた空は、いつにも増して綺麗に見えた。
双子の黄緑色の星が、カクカクとした挙動をとりながら頭上を旋回している。銀色のパラボラアンテナをそちらに向けた。シャッターを押す。
現像できた。今度は映った。
連絡手段を持ってるわけじゃないから、ようやく撮れたこの写真を見せるのは、一週間以上も先になる。
こうしてみると、一週間は長い。
霰をばら撒いた空を、もう一度。シャッター音が、ベランダに響いた。
欲望
一目見た時に確信した。今まで感じたことのないエネルギーが血管を迸り体に熱を与え、呼吸を早くさせる。
電信柱が邪魔だ。
黄色と黒のストライプが、ペットの粗相に威嚇するポスターが邪魔だ。防犯灯に照らされた漆黒で艶やかな髪も邪魔だ。距離が邪魔だ。鞄が邪魔だ。腕が邪魔だ。服が邪魔だ。
真っ直ぐに、ただ純粋な汚辱を通過して、愛を育めばいいと思う。