子供の頃の夢はオーロラ姫になることだとかスケート選手だとかいろんな面でキラキラしていたと思う。
目の前のことだけ見て一直線に向かっていく。
脳内の辞書に「慎重」という言葉がなかった。
この頃に戻りたいと思う時もあるけれど、また1つ1つ社会の常識なるものを得て無理矢理型にはめられていくのは嫌だとも同時に思う時もあるので自分はつくづく調子の良い奴だと思う。
もしも君が僕に振り向いてくれるのなら僕は君に全てを差し出そう。
でも君が振り向いてくれたことで君でなくなってしまうのなら僕は一生このままが良い。
君が幸せな道を歩めることを1番に願っているよ。
せめて死に方くらいは美しくありたいなぁ。
終わり良ければすべて良し、ってね。
テーマメモ 雨上がり
これって毎日お題に沿って書くべきなのだろうか。たまには自分で書きたいものを書いても許されてほしい。
というわけで、雨上がりとは全然関係の無い書きたいものを書こうと思う。
多分これは解説が無ければ完全には理解されることのない短歌だ。
でも、誰にも理解されなくても伝わらなくてもいい。私が楽しいと思えれば。
「ある人の瞳に蟻が映ること
蝶の標本崩れるさまで」
あの人の瞳にはもう蟻のように地面を這う私は映らなくなってしまった。
肩を並べて瞳に入れ替わるように映っていたお互いが懐かしい。
私があの人の瞳に映らなくなってしまうさまは標本の蝶が崩れる速さと等しかった。
蝶は、なにかの拍子でバリッと罅が全体に行き渡り、あっ、という間にホロホロと崩れ落ちていく。
勝ち負けなんてと私は思わない。
これを言うのは大抵勝った側だと思う。
偶に立ち直れた負けず嫌いの負けた側もいるが。
何方にせよ、一度は勝敗について嬉しくなったり悔しくなったりしているのだから勝ち負けに踊らされていると言っても良いだろう。
ただ、手の指を何本折るかで一喜一憂出来るのは人間しかいないとも思うので感受性豊かで素晴らしい。
しかし、感受性が豊かなせいで悪い方向にも考え過ぎてしまうのは勿体無い。あまり重要でないことならば、都合の悪いことは聞き流し、良いことだけ反芻するというのも考え過ぎてしまう人間の戦略的な生き方の1つであると私は思う。
時に、過去の栄光に縋るなと言う者もいるが、なぜ縋ってはいけないのか。
目の前で起きていることに対してグチグチ言われているのなら過去の自分がした良い出来事についても何度話しても良いではないか。
何度話したとしても色褪せるものではないし、自分のした良い事はいつだって共有し褒められたいものだ。