ザリ、ザリ。
静かな部屋に音が響く。
「痛かったら言ってよ」
剃刀の刃が頬を伝う。その度にザリ、ザリという音が響き、ピリピリした感触が広がっていく。
「·····」
〝髭、伸びてきたね〟
言われて頬を撫でれば、確かに少し伸びていて不揃いになっていた。
〝暇だし整えてあげようか〟
突然の申し出にポカンと口を開けていたが、相手はそうしようそうしようと勝手に話を進めていく。
剃刀、洗い桶、タオル、クリーム。一通りの道具を並べさて、とこちらを向く気配。
〝昔、ちょっとアイツにやってやった事あるから大丈夫だよ〟
一抹の不安を抱きながら、言われるがまま椅子に座り顔を上げたのが、少し前のことだった。
穏やかな午後。
季節は春の盛りで気候はぽかぽかと温かい。
思わず寝入ってしまいそうになるが、ザリザリと剃刀が当たる感触がそれを許さない。
それは今、髭を剃ってくれている相手の所為でもあるのだが·····。
「·····?」
ほとりと、不意に頬に何かが当たった。
続けてまた一つ、何かが当たる。それが上から落ちてきた雫だと気付くと同時に、剃刀の動きが止まった。
「どう、したんで·····?」
恐る恐る聞いてみる。
相手は答えない。頬に落ちる雫は一つ、また一つと増えていく。やがてカタンと音がして、髭を剃る手は完全に止まってしまった。
「·····悪い、もう終わったよ」
身を起こし、頬に手を当てて落ちてきた雫を拭う。
――この、水滴は。
そそくさと片付け始めたその手を掴んで引き止めた。
「泣いてたんで·····?」
「なんでもない」
「なんでもないって事は無いでしょう」
「·····君には見られたくないところばかり見られるなぁ」
ぼやく声が、何故か艶めいて聞こえる。
涙の理由は分からない。――けれど。
「私じゃ、相手になりませんか?」
掴んだ手の中で、長い指がピクリと跳ねる。
「見て見ぬふりは得意ですから」
そう言うと、少しの間があって。
「うそだぁ」
とおどけた声がした。
END
「雫」
そう思えるのは満たされている証拠だと思う。
END
「何もいらない」
明日とか明後日とか、今日と変わらないであろう未来なんて正直どうでもいい。気になるとしたら一年後、かな。
一年後、俺とあんたはどうなってるかな。
最高の未来はあんたが俺を選んでくれること。
最悪の未来はあんたと二度とこうしていられなくなること。
一番可能性があるのは·····今のままの関係がズルズル続いていること。
でももし自分の未来を知ってしまったら、そのせいでまた違う未来に分岐してしまうんじゃないだろうか?
あんたとの最高の未来を選ぶ為に俺らしくない事をしてしまったら、そんな俺をあんたは好きでいてくれるのだろうか?
ぐるぐるぐるぐる。
下手な考え休むに似たり。
やーめた。
そもそも明日があるかどうかも分からねえのに。
一年後の事なんて考えるだけ損だ。
――煙草吸ってこ。
END
「もしも未来を見れるなら」
日本一の歓楽街だろうが、世界最大のジャングルだろうが、イスラム建築の最高峰だろうが。
熱帯魚の楽園だろうが重工業地帯だろうが。
どんなに鮮やかな色を持つ世界でも、見ている者の心に何も響かなければ無色と同じだ。
END
「無色の世界」
〝滅びの美学〟なんてフィクションの中か、過去の出来事をフィルターを通して見てる頭の中だけのこと。
神様、神様、神様。
桜が散る。散っていく。
広い背中が崩れて、ゆっくりと落ちていく。
間に合わない。そんな筈は無い。
誰よりも早く追い付けるのに。
取り囲む数に阻まれて、手を伸ばしても届かない。
桜が散る。散っていく。
待って。行かないで。
振り返る。
その表情に息を飲む。
それは、愛を囁く時の表情で·····。
桜が見えない。もう見えない。
その瞬間、声にならない叫びと共に、自分自身も弾けてしまったような感覚に陥る。
◆◆◆
気が付くと、辺りは死体の山だった。
「××××××」
名を呼ぶ声。
手を伸ばす。桜が舞っている。
「大丈夫か」
穏やかな顔でそんなことを言うから。
「それはこっちの台詞だよ」
笑ってそう言うしか、なかった。
END
「桜散る」