自分の心がはっきりしっかり分かる人なんて、どれだけいるんだろう?
精神科医だって心理分析官だって、思い通りの人生が歩めるわけじゃない。
END
「心の迷路」
時計は午後二時半を指していた。
上司はさっきからチラチラと時計を見てはまた視線を落とすを繰り返している。
今日は朝からそんな感じで、気もそぞろだ。記念日とかでは無かったと思う。上司の誕生日はまだ二週間ほど先で、自分の誕生日は来年だ。他に何かあっただろうかと首を捻るが思い出せない。
二時四十五分を回ったところで男はふむ、と小さく息をつくと上司を振り返った。
「一段落ついたので、そろそろ休憩しましょうか」
「そうだね」
「コーヒーでいいですか」
「あー·····今日は紅茶がいいかも」
「紅茶、ですか·····茶葉が·····あ、切らしてますね」
「あぁ~、そっか。でもこないだいい感じのティーカップを頂いたんだよねぇ」
「はぁ」
「せっかくだから君とそれで紅茶が飲めたらなぁって思ったんだけど」
机に肘をついて上目遣いで見上げる上司に、鼓動が跳ねる。
「分かりました。じゃあ買ってきますので少し待っててください」
「はーい」
分かっているのか、いないのか。あざとさを感じながら男は売店へと向かった。
◆◆◆
男が部屋を出たのを見送って、引き出しを開ける。
新しいティーカップで紅茶を飲みたい、は確かに本音だが、それは半分建前で久しぶりに恋人らしいことをしたい、が本心だ。
「·····今日くらいはノってくれるかな」
入っていたのはイチゴ味のチョコレート菓子。
一週間ほど前から散々宣伝していたから、いくら彼でも分かるだろう。この菓子の端をくわえて「ん」と言ったら、戻ってきた彼はどんな顔をするだろう。
あまり変わらない表情を、少しは変えてくれるだろうか。
そんな淡い期待を抱いてしまう。
袋を開けて、ピンク色のそれを一本くわえてぷらぷらさせる。
時刻は午後三時五分。そろそろ帰ってくる時間だ。
「ただいま戻りました」
扉が開く。
「おかえりぃ」
糸のような細い目が、僅かに見開かれた。
END
「ティーカップ」
寂しくて、でもそれを口にするのは悔しくて、
「おひとり様」が好きなんだと言い聞かせた。
一人で過ごすことを楽しめることは、別に自慢出来ることじゃないと本当は分かっていた。
孤高を気取っても今時は「コミュ障」と思われるだけ。後悔先に立たずとはよく言ったもの。
変わり者でいられるのは、心が強い証でもあるのだ。
一人で過ごすことは気が楽だ。
でも誰かと共有出来る何かを失ったのもまた、間違いようの無い事実だった。
そんなことを考えてしまうこんな夜、私はきっと〝寂しい〟のだろう。
END
「寂しくて」
昔一度、何かして「ごめん」と謝ったら「許さない」と言われた。「じゃあ許してくれなくていいよ」と言ったら向こうが慌てた。
多分私の中にある境界線が、「これで駄目ならもういいや」と訴えていたのだと思う。
何につけても私の中にはそういうのがあって、そこを超えたらたとえ同じ部活の友達でも、仕事の同僚でも、どうでも良くなってしまう。
私は冷たいのだろうか。
でもそこを越えられたら私は多分情緒不安定になる。
その線が深いところにあるのか浅いところにあるのか、それは私にも分からない。
でもその線があるのは確実で、悪いけどそこで切り分けられるのが私だ。
END
「心の境界線」
重力など存在しないかのように彼は舞う。
引力などに引かれたりしないかのように彼は空を駆ける。その姿に目を奪われ、心臓を鷲掴みにされる。
全部ありもしない妄想なのだとしても、私は彼の背に透明な羽根を幻視する。
手を伸ばせば届く距離にいるのに、果てしなく遠くにいる気がする。
でももし、「行くな」と言って縛り付けたら。
彼はそれでも、あの笑顔を見せてくれるだろうか。
透明な羽根をはばたかせ、どこかに行ってしまわないだろうか。
募る不安は隠しきれず、笑顔で振り返る彼の手を強い力で掴むしかなかった。
END
「透明な羽根」