せつか

Open App
8/11/2025, 3:54:36 AM

子供を必死で守る親。
友の無実を信じる男。
夫を影で支える妻。

どれも彼には縁の無いものだった。
親はお荷物にしかならない実の子を虐待し、友は彼が自分の為にならないと分かったら背を向けた。
夫に隠れて他の男と寝る妻が、母の姿だった。

彼の周りにはそういう人間しかいなかった。
そんな彼が長じて人を心から信じられない人間になってしまっても、無理の無いことだった。
やさしさなんて、生きる為に上辺だけ取り繕う為の手段に過ぎない。そうしているのが楽だから、以外に理由が無い。
彼がそういう思考になるのは、ある意味ごく自然な事だった。

「·····」
瓦礫になった街を見つめる。
胸が苦しい。喉が詰まる。
娘を守る為に駆け付けた父の背。
未来に夢を抱いた男が築いた街。
正しさを信じてついてきた兵士。
そんな人間達が次々に傷つき、破壊されていく。
縁の無い筈の世界が、いつの間にかかけがえのないものになっていた。
この苦しさは、どこから来るのか。
やさしさなんて、自分の中には微塵も無いと、そう思っていたのに――。

いっそ全ての感情を捨ててしまえたら。

そんな事を、彼は思った。


END


「やさしさなんて」

8/9/2025, 11:39:15 PM

昔は八月でも早朝とか夕方は涼しかったのにねえ。

パタパタとうちわを扇ぎながら、おばあちゃんは言った。まだ腰の曲がっていないおばあちゃんの背後がゆらゆらと揺れている。陽炎だ。
八月某日、午後四時。
まだ気温は30℃以上あるだろう。おばあちゃんの言う昔は涼しかった、が信じられない。
私はおばあちゃんのゆったりした歩き方に合わせて時折足を止める。その度に汗を拭ってペットボトルのお茶を飲んだ。

こうして歩いてるとヒグラシの声が聞こえたりしたんだけど。

おばあちゃんの話がまるで違う世界の話のように聞こえる。セミの声なんて、私はもう何年も聞いてない。

「おばあちゃん、早く帰ろう。日陰も無いし、熱中症になっちゃうよ」
追いついたおばあちゃんの手を取って、ゆっくり歩く。おばあちゃんはハイハイ、と答えて私にうちわの風を向ける。生温い風だ。

昔はこれで充分だったのにねえ。
ネッククーラーをしたおばあちゃんは懐かしそうに言う。

生温い風を感じながら、私は遠い遠い昔を想像してみる。

ヒグラシの声が聞こえたり気がした。

END



「風を感じて」

8/8/2025, 11:45:56 AM

家に帰ったら推しのフィギュアがある喜び。
運を使い果たした感があるけど後悔は無い。

END


「夢じゃない」

8/7/2025, 5:16:25 PM

コンパスなんてアテにならない。
こっちに行くだろうなと思ったらあっちに行って、あっちに向かえば安心だと分かっているのにそっちに行ってしまう。
自分の心なんて分かってる。
そう思っていた筈なのに思いがけない沼にハマったり、普段なら選ばない選択肢を選んだり。

羅針盤なんて、あって無いようなモノだ。


END



「心の羅針盤」

8/6/2025, 5:19:08 PM

酒は強い方だ。
仲間うちで飲んだら大抵最後まで残って、先に潰れた連中の世話をするのが常だった。

だからこんな事は初めてで、彼は微かに酔った頭でぼんやりと目の前の男を見つめている。
「·····」
視線に気付いた男はニコリとしまりの無い笑みを浮かべる。彼より早いピッチで、彼より強い酒を飲んでいた筈なのに、その表情はいつもと何ら変わらない。
「まさか君とサシで飲める日が来るなんてね」
男の言葉に彼は不機嫌そうに鼻を鳴らす。苛立ちを紛らわせようとジョッキを傾ける姿に、男はますます笑みを深くした。

◆◆◆

路地を吹き抜ける冷たい風に、彼はぶるりと長身を震わせた。酒で火照った頬には心地よいが、全身でそれを感じるとやはり寒い。
季節は冬へと少しずつ向かっている。
「あぁ、楽しかった」
男はまだ飲み足りなかったのか、隠し持っていたスキットルを取り出すとぐびりとウイスキーを流し込む。
彼は呆れたようにそれを横目で見ながら煙草を取り出して火をつけた。
「アンタは楽しかったでしょうが、こっちはもう二度と御免蒙りたいですねぇ」
紫煙と共に吐き出した言葉が、夜気に紛れて消えていく。男はスキットルから唇を離して彼を見つめると、片方の口端を軽く上げて男臭い笑みを浮かべた。

彼が仕事ではなくプライベートでこの街を訪れたのも、男が普段とは違う店を訪れたのも、言わば偶然。だが、そこで二人が出会い、酒を酌み交わしたのは必然だった。少なくとも男はそう思っている。だが彼の方はそれを認めたくないのだろう、憎まれ口を叩くその横顔は、酔いのせいか微かに赤くなっていた。

「さて、そろそろ帰ろうか」
空になったスキットルを投げ捨てて、男が言った。
彼は手袋をした長い指で煙草を摘むと、ゆっくりと息を吐く。細く白い煙が蜘蛛の糸のように中空を漂うのを、男は目で追う。
「仕事モードになっちまう前に早く消えて下さぁい」
大きな月を背にそんな毒を吐く彼は、何をしても絵になると男は思う。スラリとした長身、煙草を挟む長い指、皮肉げに片方だけつりあがった唇、手入れの行き届いたスーツ。自分の魅力を良く知っているのだろう、そんな自信が現れる彼の一分の隙も無い姿が、男は見ていて好きだった。
――だって、崩しがいがあるからね。

「仕事でもプライベートでも、どっちでもいいからまた会える日を楽しみにしてるよ」
「寝言はおうちに帰って寝てから言って下さいねぇ?」
シッシッと手を振って追いやる彼に、男は笑う。
「あっはっは。じゃあ、またね」
ひらひらと手を振って人混みに消える男の背に、彼の視線が突き刺さる。

繁華街のざわめきは、男の昂る心を鎮めてくれそうになかった。


END



「またね」

Next