せつか

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7/12/2025, 5:23:53 PM

風鈴の音は綺麗だと思う。
高くて、金属的で。

でもさぁ、と彼女は呟いて、ネイルを塗った爪でグラスの縁を軽く弾いた。キン、という小さな金属音が静かな店に高く響く。
「アタシ、あの音で涼しいと思ったこと、一度も無いんだよね」
彼女の声はどこか投げやりで退屈そうにも聞こえる。私はそんな彼女を横目に見ながら、グラスを伝う水滴をそっと拭った。
「細やかな感性、ってやつが無いんだよ、アタシ」
――情緒とかそんな分かんない。
彼女の横顔は幼さと年相応の憂いが混じって、不思議と人を惹きつける。
そんな彼女が僅かに唇を尖らせて言う言葉が、やけに私の心をざわつかせた。

「誰かに何か言われた?」
私の言葉に彼女は小さく首を振る。
それが嘘だということは、下唇を噛む仕草ですぐに分かった。彼女は嘘をついた後、しばらく下唇を噛む癖がある。
「アタシ、ガサツだし、教養? とか無いからさ」
彼女が私と出会うまでにどれだけの苦悩があったのか。私には推し量ることしか出来ない。だが彼女がこうして時折見せてくれる弱さを、私は愛おしく思った。
「そんなもの、無くても一向に構わないよ。それに情緒なんて人と同じである必要も無い」
私は言って、グラスに残ったワインを呷る。
あぁ、彼女の視線が喉に突き刺さっている。
「これはただのガラスだし、風鈴も現代社会においてはただのインテリアだよ。あの音に涼しさを感じる人間もいれば騒音だっていう人間もいる」
彼女の手の中でグラスの氷が溶けていく。
カランと鳴るその音が、私の耳には彼女の相槌に聞こえて。
「君の人生に何の影響も与えない人間の言葉なんて、一切気にしなくていいからね」
青いネイルが輝く指を、包み込むようにして自らの手を重ねる。
「ありがと」
噛んでいた下唇が綻んで、笑みを刻んだ。


END


「風鈴の音」

7/11/2025, 11:36:42 PM

今日は仕事で3つほどモヤモヤする事があった。

帰ってカップのアイスクリームを用意して、タブレットを取り出す。
大好きな作家の推しCP小説のページを開いて読み耽る。

明日もモヤモヤするのだろう。
吐き出せないイライラが募るだろう。
逃げたい気持ちが湧き上がるだろう。
でも出来ないのが生きてる哀しさ。

だから明日は帰りにアイスクリームとお菓子をたくさん買い溜めして、また来るであろうモヤモヤに備えるのだ。


END


「心だけ、逃避行」

7/10/2025, 2:25:22 PM

エクスカリバー、ロンギヌスの槍。
天叢雲剣に那須与一の剛弓。
エルメスの靴、オルフェウスの竪琴、イージスの盾。
汲めども尽きぬ大釜に、決して刃こぼれしない剣。

夜中まで夢中で読んだ本の中。もしくはコントローラーで画面の中の勇者を動かしたその先に、伝説の武器や宝物が溢れていた。
小説も漫画もゲームも、親からはハマり過ぎを注意されたけれど、それがきっかけで知った世界の神話や英雄譚は数え切れない。

七つの大罪、四天王、四神に十二の星座の神話。
母は山羊座の山羊の下半身が魚であることを知らない。知らなくても生きるのに何の支障も無いけれど、本の中で、ゲームの中で知った冒険譚、英雄譚は私の中で確かに大きな価値を持っている。

冒険は、どこでも出来るんだ。


END


「冒険」

7/9/2025, 3:57:10 PM

おじちゃんへ。
お元気ですか? わたしはとっても元気だよ!あと少しで病気も治るって、りんごのおじいちゃんが言ってました。
最近おじちゃんに会えなくてちょっぴりさみしいです。りんごのおじいちゃんはおじちゃんはお仕事でいそがしいから、って言ってました。

実はわたし、最初はおじちゃんの事がきらいでした。
だって、おじちゃんが来るとりんごのおじいちゃんも、おとうさんもお部屋で難しいお話をして、お話が終わるととってもこわい顔をしていたから。
でも今はもうわかってるよ。
おじちゃん達が難しいお話をしてたのは、みんな私のためだったんだよね。

今日はみんなの似顔絵をかきました。
おじちゃんのピカピカ光るやつ、綺麗で大好きだよ。でもおじちゃん、いっつもサングラスしてるから、いつかちゃんとお顔が見たいな。
似顔絵、おにいちゃんがちゃんと渡してやる、って言ってたけど、届いたかなぁ?
喜んでくれると嬉しいな。

またいつか、遊びに来てね。

×××より。

◆◆◆

色褪せてしわくちゃになった手紙を広げて、男は何を思うのか。
サングラスの奥の瞳がどんな色を湛えているのか、分かる者は誰もいない――。


END


「届いて·····」

7/8/2025, 10:01:34 PM

長く伸びる灰色のコンクリートの階段。
暗く重く広がる雲。
なぜか周りには誰もいない。
私の体がぐらりと揺れて、コンクリートがまるでスローモーションのように近付いてくる。

アパートに住んでいた幼い頃。
やたら鮮明に覚えている階段から落ちた記憶。

それ以外の子供の頃の記憶はほとんど残っていない。

謎だ。


END


「あの日の景色」

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