海なし県で育ったからか、海というものに特別感を覚える。
小学生の夏休み、途中で休憩の為に寄ったサービスエリア。そこから歩いていける砂浜や、岸壁に打ち寄せる波飛沫に目を輝かせた記憶がある。
中学を卒業したあたりで帰省をする回数がぐっと減り、海に行くこともほとんど無くなった。
あの頃みたいに無邪気に波打ち際を走る気にはもうなれないけれど、今年、なぜか妙に海に行きたい気になっている。
波音に耳を澄ませて、はしゃぐ子供や散歩をするカップルをぼんやり眺めてみたり、柔らかな砂浜に腰を下ろして本を読むのもいい。
毎年帰省していた頃から二十年以上経って、私は波の音に何を思うのだろう――?
思い立ったが吉日。
ちょっと本格的に計画を立ててみようか。
END
「波音に耳を澄ませて」
「風に色なんてないでしょ」
細く白い煙を吐き出しながら彼は投げやりな声でそう言った。
海はどこまでも穏やかで、少し強い陽光にキラキラと波を輝かせている。
僕は彼の、皺の刻まれた横顔を見上げて言葉の続きを待っていた。
「そう見たいっていうキミの心が風に色をつけてるんだよ」
胸にあったチーフを摘んで掲げると、彼は海面に腕を伸ばしてパッと手を離した。
「あ!」
風に乗ってひらひらとチーフが舞う。青いチーフは鳥のように海面を舞い上がり、舞い降り、やがて水に触れると引きずり込まれるようにして海中に没した。
「風なんてものはね、ただ吹いてるだけなの。そこに意味を見出してるのは私らのただのエゴだよ」
その声に微かな寂しさを感じて、僕は彼の横顔をじっと見上げる。
「·····」
この海で彼に何があったのか、僕は知らない。でも彼がこの海の上での生活と、そこを渡る風を深く愛していることだけは分かった。
僕はと言えば、彼の指先に小さく灯る赤とそこから流れる白い煙に、なんという名をつけるべきか悩むだけだった。
END
「青い風」
「遠くへ」と打つと予測変換で「行きたい」と出る。
この一文を見ると例の歌が頭の中に流れてくる。
刷り込みって怖い(笑)。
END
「遠くへ行きたい」
とある国産RPGシリーズの初期のナンバリングが好きな人にはとても馴染みのある鉱物。
そのRPGではこれが世界のエネルギーの源だったり、主人公達を強くする為のアイテムだったり、ラスボスの力を弱体化させる為の秘宝だったりした。
シリーズの途中からクリスタルの無い世界が出てくるようになり、そのRPGを象徴するワードではなくなったのが、子供心に感慨深かったなぁ。
でも、世界を司っている筈のクリスタルが砕け散ってしまわなければ、話が進まなかったんだよね(笑)。
END
「クリスタル」
食べ物なら皿に盛られたカレー、奮発して買った鰻の蒲焼、屋台で買った焼きそば。
食べ物以外なら手持ち花火の火薬、プールの消毒剤、帰って脱ぎ捨てたTシャツの汗。
子供の頃は夏といわず色々な匂いに囲まれていた。
大人になってだんだんそれらと縁遠くなって、今ではすっかり季節の風物詩を気にしないままで生きている。
年老いた母にどろりとしたペースト状の食べ物を食べさせる。
「こぼさないでよ」
母はもう自分が今何を食べたかなんて分からないだろう。テレビに視線を固定したまま、口元に運ばれたスプーンに反応して薄く口を開ける。その視線は決してこちらを見ようとはしない。
テレビに映し出されているのはどこかの花火大会だ。
大きな音を怖がる母の要望で、音は消してしまっている。自分の口元にスプーンを運ぶ見知らぬ女に、視線が注がれることはない。
饐えた匂いが鼻をつく。
食事が終わったら洗濯をしなければ。
「おかあさん」
どろりとしたペーストを唇に押し付ける。
「これ分かる? カレーだよ」
ほとんど匂いのしない薄茶色のペースト。
「おいしい?」
反応は無い。
じわりと額に汗が浮かぶ。エアコンは効いている筈なのに。
母が倒れ、この生活が始まって十年が過ぎた。
子供の頃ワクワクした夏の匂いは私の記憶から徐々に消えていき、汗と排泄物の匂いに上書きされている。
疲れはするし、悲しくなるが、不思議と嫌だとは思わなかった。
END
「夏の匂い」