買ったばかりだというスーツケースはすぐにいっぱいになった。
「別に少女漫画みたいなのを想像してた訳じゃないんだけどさ。お互い生身の人間で、もういい歳なんだし」
ぎゅむ、と無理矢理服を押し込んで、乗っかりながら蓋をする。
「皿洗いして欲しいって言ったら食洗機買うよって。その食洗機にバランスよく入れてスイッチ押すのは結局私なのよね」
苦労して蓋をしたスーツケースを玄関まで押していって、ようやく一つため息をつく。
「彼は自分目線でしか話しないのよ」
ニットのカーディガンを羽織り、鏡の前でメイクを再確認。
「大変でも二人で一つの物語を描く、みたいなのを期待してたんだけどさ」
どうやら彼女の物語はここではない別の場所で続くらしい。
「その旦那は今日どうしたの?」
「仕事?」
「なんで疑問形?」
「多分女がいるから」
「あー·····」
「まぁ潮時だったってことだよ。離婚届は書斎に置いといたし。そういや、私も書斎欲しいって言ったら却下されたんだった。クソ、思い出したら腹立つな」
「それももう終わりでしょ」
「そゆこと」
サングラスをかけた彼女の表情は、どこか晴れやかで。
ドアを締め、鍵を掛けると彼女はその鍵をポストの隅にテープで貼り付けた。そうしておもむろにスマホを取り出す。
「さよーならっ!」
一際大きな声で彼女は叫ぶと、アスファルトに置いたスマホをヒールで思い切り踏みつけた。
ピシッ、と乾いた音がして画面に大きな罅が入る。
そしてゴリ押しとばかりに罅の入ったスマホを傍らにあったバケツに水没させた。
「これからどうするの?」
「とりあえず実家帰って事情説明して、しばらく旅行でもしようかな」
「そっか」
「·····ありがとね、見届けてくれて」
「ううん」
「あー、清々した」
「あはは」
車にスーツケースを載せるのを手伝って、運転席に乗り込む彼女を見送る。
「じゃあね。落ち着いたら連絡する」
「うん。じゃあね」
彼女の車が見えなくなったのを確認すると、私はスマホを取り出す。
彼女の物語はもう私とは関係ない。
分岐したシナリオはもうまったく別の物語だ。
私ルートの物語は、ここからが本番。
「もしもし。××くん?」
END
「まだ続く物語」
その国の王様は一本の小さな枯れ枝を肌身離さず持っていました。
渡り鳥が渡りの時に咥えていたという、本当に小さな小さな枯れ枝です。王様はその枝を時折愛おしそうに指でそっと撫でては、お妃様にも見せたことの無い表情をするのでした。
王様の身の回りのお世話をしながら、私は毎日のように王様のそんな姿を見ていました。
何の変哲もない小さな枯れ枝。
鳥が咥えていたという、嘴の痕がはっきり見えるその枝は、王様にとって王冠よりも大切なもののように見えました。
広い海を渡る鳥達が、休むために咥えていたという枯れ枝。王様とこの枯れ枝に、どんな関係があるのでしょう。何度もお尋ねしたいと思っていましたが、王様があまりに切ない表情をされるので、結局私は聞けずにいるのでした。
ある年の冬のことです。大きな大きな災害がこの国を襲いました。
大臣達がひっきりなしに報告に訪れます。
ひと月が経った頃、最果ての海にある灯台が崩壊していたという報告が大臣によってもたらされました。
――その時の王様の顔が、忘れられません。
王様は青く美しい瞳を一瞬大きく見開くと、やがて「そうですか」と小さく呟きました。
その、いつもの王様らしからぬ力の無い呟きに、私は王様の中で何かが失われたのだと、そう思いました。
王様は精力的に各地を巡り、災害に見舞われた人々を励まし続けました。広大な国土の南の端からゆっくり北上し、一年後には北の最果てへ辿り着きました。
一時間もあれば回れてしまう小さなその島の灯台は、すっかり廃墟になってしまっていました。
「·····」
崩れた石壁を王様は無言で見つめています。
しばらくそうして立ち尽くしていた王様は懐から小さな枯れ枝を取り出すと、瓦礫の山にそっと置きました。
「さようなら」
囁くような王様の声でした。
その目に光るものがあったのは、きっと気のせいなどでは無かったと思います。
やがてその島に風が吹き、枯れ枝も、砂礫も空へと舞い上がっていきました。
後には元の、崩れた石壁と灯台だった名残のガラス片が散らばるだけでした。
これは長くお仕えした私が見た、最初で最後の王様の涙のお話です。
END
「渡り鳥」
ストレートの長い黒髪。
ノートに綴られる綺麗な筆記体。
手触りのいい下ろしたてのシャツ。
長い口上をつまることなく言い切る演説。
あとは、血液。
さらさら、というオノマトペで表現されるものになぜか憧れる。
淀みや停滞が無いから清々しく感じるからかもしれない。
END
「さらさら」
日記はここで終わっている。
END
「これで最後」
私を名前で呼ぶ人はあまりいない。
大半の人は私を名前では無く肩書きで呼ぶ。
そうしてだんだん自分の名前が遠くなって、肩書き以外のものが消えていって、私の自我が閉ざされていく。
肩書きが無くなったら私はどうなってしまうのだろう。肩書きの無い私を人はなんて呼ぶのだろう。
私の名前は·····何だったろう?
肩書きだけになってしまった私は、顔も髪も体も声ももう自分では思い出せない。
「×××××様」
――誰?
「×××××様」
――それは誰?
「もちろんあなたのことです。×××××様」
――あぁ、そうだ。それは私の名前。
この世界でただ一人、私を名前で呼ぶ人。
「久しぶりですね。※※※※※※」
あなたはきっと、知らないのでしょう。
年下の君の名前を呼んだあの日。
私は私を取り戻したのです。
END
「君の名前を呼んだ日」