写真を撮っていいかと聞かれた。
あまり好きでは無いと答えると、同居人は「分かった」と拍子抜けするほどあっさり引き下がった。
ソファに寝転がったままスマホを弄る姿はいつもと何ら変わらない。だがなんとなく腑に落ちないものを感じて、彼に理由を聞いてみた。
「私達が一緒に暮らし始めて今日で一年だなって思って。でもあなたが嫌ならいいよ」
スマホに目を落としたまま、そんな事を言う。
「·····」
私は無言で寝室に向かいクローゼットから二人分の上着を出してリビングに戻ると、一枚をソファに転がったままの同居人に放り投げた。
「っわ、·····なに?」
「行くぞ。支度しろ」
「どこに?」
「いいから」
慌てて立ち上がる彼の表情に、不満気な様子は無い。
二人で家を出ると予想外に冷たい風が上着の裾をはためかせ、思わず肩を竦める。春とは言え、夜はまだまだ冷える。
15分ほど歩いて辿り着いた市立図書館の裏庭は、あの日と同じ静寂に包まれていた。
「·····懐かしいね」
葉桜を見上げながら同居人が呟く。
あの日は雪のように淡い色をした花が満開だった。
今は濃い緑の葉が僅かな灯りにぼんやりと浮かび上がるだけだ。
「·····私はお前と違ってそういうのに疎いんだ」
「そういうの?」
つい言葉がぶっきらぼうになる。
「だから·····記念日とか、そういうのだ」
「私の誕生日は覚えてくれてたじゃないか」
「それはそうだが、本当はもっと色々な事を覚えておくべきなんだろう」
「忘れたわけじゃないだろう? 私みたいに記念だなんだっていちいち浮かれないだけで」
「浮かれたいんだ、本当は」
「――え?」
ああ、くそ。なんて言えばいいんだ。
「どうしたらいいか分からなかった。だから·····お前もこれからは「私が嫌ならいい」とか言わないでくれ」
淡い色の瞳が驚きに見開かれる。口元には微かな笑みが浮かんで、それを目にした瞬間、私の胸にもあたたかい何かが湧き上がるのを感じる。
「だからここに連れてきた? あなたと出会った図書館で、この木の下で写真を?」
私の腕を取り、葉桜の下に誘う同居人の嬉しそうな顔。向けられたスマホには、生い茂る緑を背に仏頂面の私と微笑む彼。
「撮っていいの?」
「――ああ」
小さく響くシャッター音。
スマホの中に刻まれる、軌跡。
END
「軌跡」
おはぎ、ゴーヤ、焼き魚、お茶漬け、つぶあん、大判焼き。
食べられないわけじゃないけど自分から選んで食べたいと思わない、好きになれない食べ物。
チョコレート、にんじん、焼肉、おにぎり、こしあん、たい焼き、アイスクリーム。
食べ過ぎたら良くないことは分かってるけど、つい食べちゃう嫌いになれない食べ物。
こんな風に選り好み出来るのは、幸せな事なんだろうなぁ。
END
「好きになれない、嫌いになれない」
暗かった街がしらじらと浮かびあがっていく。
川面がきらめき、背の高いビルがシルエットを際立たせ、光が満ちていく。
夜に冷えた街全体が、次第に温まっていく。
鳥のさえずり、車のエンジン、トースターのタイマー。
静かだった街に、朝の音が増えていく。
この家の〝朝の音〟はなんだろう。
窓の外をぼんやり見ながら考える。
「××××××、起きたか」
ノックの音。自分の部屋でもあるのだからノックなどせず開けていいのに。
「起きた」
答えて立ち上がる。
細く開いたドアの隙間から、コーヒーの匂いが漂ってくる。
半分ほど開いたドアから不機嫌そうな顔が覗く。
でもこれが、彼のいつもの顔だ。
「おはよう」
言いながら、さっきのノックの音と声がこの家の〝朝の音〟だと思った。
END
「夜が明けた。」
魔が差すって、あるでしょ?
いつもは人通りがあるのに何故か誰もいない。
いつもはあのアパートのどこかの窓が開いてるのに今日に限って開いてない。
いつもは鍵を掛けてしまってある筈なのに鍵が開いてる。
いつもは静かなのに今日はお祭りで町全体が騒々しい。
そんな、いつもと違う事に気付いた日。
そんな、今なら誰にも見つからないと分かってしまった瞬間。
そんな、ふとした瞬間が正にソレ、なんだよね。
それが分かってしまったら、後は簡単だったよ。
この手をこう、ぐっとあの人のお腹に向けるだけだった。最初の抵抗を乗り越えれば後は自然に押し込まれて、もう限界ってところにまで入れたら後はその手を引っ込めるだけ。
誰もいなかった。
何の音もしなかった。いや、音はしてたかな?
でもうるさすぎて何の音か分からなかった。
私はあの人に背中を向けて歩き出した。
ううん。走ったりしてない。
歩いて普通に帰ったよ。帰ったら着替えて支度して、駅に向かった。
うん、君が来るまで誰も来なかったよ。
だから言ったでしょ? ああいうふとした瞬間を、〝魔が差す〟って言うんだよ。
END
「ふとした瞬間」
どこにいようと、誰といようと、何をしていようと、構わないの。
女はそう言ってニコリと蠱惑的に微笑んだ。
華やかな黄色い花が一面咲き乱れる場所で、女の佇まいは異質だ。いや、花の方が本来そこに咲いている筈の無いものなのか。
やけに華やかで、元気で、力強さを感じさせる花は女の佇まいとも、隣にいる男ともまるで違う。
白いドレスに身を包んだ女は咲き乱れるその花の中で不思議な笑みを絶やさない。慈愛なのか愉悦なのか、感情の判断がつかないその表情は、自分もきっとそうなのだろうと男に思わせた。
どんなに離れていてもあの子は私の望む通りの結末を見せてくれる。私がたっぷりの愛情を注いで育てたあの子なら。私が教えた愛、それ以上の愛の形を、私が理想とした愛、それを覆すような愛の形を、あの子はその人生をかけて見せてくれる。
あの子が誰といるかは、大した事じゃないの。
何をするかが大切なの。
パラソルをくるくると回しながら女は歌うように囁く。
男はそんな女の横顔に深く長い息を吐く。
「あの子、か。かわいそうに。自分で選んでいると思った全ての選択が、君の教育の賜物なんてね」
そうしなきゃあの子は生きられなかったのよ。
女の声が途端に鋭く厳しいものになったのに、男は気付いて息を飲む。
あの子は私の大事な愛し子。
どんなに離れていても、私は見つめているわ。
あの子だけを。
あの子が見せる愛の形を。
黄色い花が揺れる。
大輪の花は女を見上げ、その向こうにある空を見上げている。その先にあるのは真っ暗な宙と、その中心に輝く太陽。
遠く離れた灼熱が、自分のすぐ後ろにいるような気がして、男は思わず肩を竦めた。
END
「どんなに離れていても」