ゴミ箱から柚子の香りが漂ってくる。
昨日風呂に入れた柚子だろう。
ぶよぶよにふやけて、嫌な手触りになった果肉の一つを昨夜、渾身の力で握り潰した。
一つだけ醜く変形した柚子を見ても、妻は顔色一つ変えなかった。私が何をしようが興味無いのだろう。
ただ、季節の行事をきちんとやっているしっかりした私、という自己満足なのだ。
嫌いだからやめてくれ、と言ったところで彼女には何も響かない。無表情で、「そうですか」と言うだけが関の山だ。
「·····」
私達はなぜ結婚したのだろう?
もう遠い過去のことだから思い出せない。
妻を嫌っているわけではない。あちらも特段私を嫌っているわけではないと思う。
ただ、もう元には戻らないくらいに冷めきってしまって、その冷たさに耐えられなくなった。それだけだ。
ゴミ袋の口をきつく閉じて、柚子の匂いを閉じ込める。好きな香りではあったがもうこれはただのゴミだ。昼頃には収集車で更に潰されて、誰も嗅ぐことのない芳香を放つのだろう。
昨夜風呂に入っていた時の激しい感情は、いつの間にかなりをひそめている。
昨日が冬至だったという事は、今年もあと二週間足らずだ。
来年もまた私はぶよぶよにふやけた柚子に手を伸ばし、どうにもならない理不尽にため息をつく。
来年も再来年も、私達はきっと何も変わらない。
END
「ゆずの香り」
大きな空は、何が大きいのか。
広い空、青い空は分かる。
けれど大きい空という表現にはどうも違和感を覚える自分がいる。
何が〝大きい〟んだろう?
そこまでぼんやり考えて、ふと空を見上げる。
「――」
低く垂れ込めた灰色の雲の切れ目から、大きな赤い目が覗き込んでいた。
〝大いなる空〟で、大空かぁ。
END
「大空」
小さな背中が緊張に震えている。
当然だ。
スポットライトに照らされた舞台。
彼女は今からそこに行くのだ。
初めての舞台。
プリマに憧れた小さな女の子が今、夢を叶えようとしている。
そう広くはない手製の舞台。
観客はみな親類縁者のようなもので、現実とは程遠い。
彼女はそれをよく分かっている。――私も、観客達も。
この舞台は現実ではない。
私と彼女の関係も、観客達と私達の関係も。
たった一夜の幻だと、誰もが知っている。
だがそれでも、彼女は全霊を込めて踊るだろう。
爪先立ちで、両手を広げて、くるくると。
途中で転んでしまうかもしれない。
だが観客達は万雷の拍手を打つだろう。
夢を叶えた小さな少女に。
ベルが鳴る。
彼女が微かに振り向く。不安に揺れる瞳。
私はそっと手を伸ばし、彼女の華奢な背に触れる。
「大丈夫。行っておいで。小さな歌姫」
彼女が再び舞台に視線を向ける。
「いってきます」
思いのほか力強い声で答えて、彼女は舞台への一歩を踏み出した。
END
「ベルの音」
放課後の教室。
ライブが終わった直後のコンサートホール。
上映終了後の映画館。
撤去されたクリスマスツリー。
電気の消えたショッピングモール。
最後の一台が走り去った駐車場。
廃墟になって久しい遊園地。
寂しさというのは、人の痕跡があったからこそ感じるもので。
往時の賑やかさや活気を知っているからこそ、それらが無い状況を寂しく感じるのだろう。
遠い将来、人類が全て滅んでしまったら寂しいという感覚も、楽しかった記憶も、全て無くなってしまうのか。
いつか寂しさも含めた全ての感情が、この世界から消えてしまう瞬間がやって来る――。
遠い宇宙を進む船は、その記憶を無くしたくない人々の、最後の希望なのだ。
END
「寂しさ」
「私も、貴方も」
曇った窓ガラスを見つめながら、彼はふと思いついたように口を開いた。
「多分一人である程度のことは出来てしまうんですよね」
外は雪。積もるかも知れないと予報で言っていた。
けれど暖房の効いた部屋との気温差でそんな外の様子はほとんど見えない。
白だか灰色だか分からない色で閉ざされた室内は、暖かい筈なのに何故か妙に居心地が悪かった。
「まぁ、そうだね。否定はしないよ」
どこか投げやりな調子で私は答えて、一人がけのソファからゆっくり立ち上がる。
彼は何も見えない窓ガラスを何故か睨みつけるように見つめていた。
「人は一人では生きていけない、なんて言うけれどそれは嘘だよ。どうとでもなる」
私も彼も、確かに一人である程度のことは出来てしまう。ハードルを下げれば苦手だと思う事もやれない事は無いだろう。別段、私と彼に限った事ではない。
そう言うと、彼は私を見上げて厳しかった表情を突然ふわりとやわらげた。
「そういう、ところですよ」
そう言って、隣に並んだ私にどかりと背を凭れかけてくる。なんと答えたらいいのか分からず、私は彼を見下ろして問うた。
「みんなからもよく〝そういうところ〟と言われるんだけどね。何が〝そういうところ〟なのかよく分からないんだよ」
言いながら手を伸ばし、曇ったガラスの上で掌を数回往復させる。氷のように冷たいガラスの水滴で手がみるみる濡れていくが、構いはしなかった。
もう既にうっすらと雪は積もり始めている。
「私も貴方も、寂しいとか苦しいとか、そういう事を口に出せない性分だから困りましたね。という話です」
彼は私を見上げながら微かに眉を寄せて微笑む。
どこかで見たような表情だな、と何故か思った。
「やっぱりよく分からないな」
「いいんですよ。分からないままで」
彼は答えて、まだ曇ったままのガラスに指で何かを書き始める。
「せめてこんな寒い冬は、一緒にいましょう」
彼が相合傘に自分の名前を書き入れた頃には、隣に書かれた私の名前はもう滲み始めていた。
END
「冬は一緒に」