何でもないフリ。
何でもないフリをしないと生きるのが倍キツくなる。
いちいち気にして、深刻になっていたら周りからドン引きされる。
そうなったら自分も相手も面倒くさくなって、やがて距離をとってしまう。
でも本当は。
苦しかったり腹が立ったり、許せなかったりムカついたり。何でもないワケないんだよ。
END
「何でもないフリ」
この言葉の嘘臭さと薄ら寒さ。
自分達とそれ以外を線引きする、ある意味冷たい言葉。
「だったら君も仲間になればいい」
違うだろ。
そうやって徒党を組んで、線引きをして、排除する自分達を正当化する感じが嫌なのだ。
スポーツだとか、音楽だとか、息を合わせなきゃいけないものなら分かる。
けれど社会生活は必ずしも「仲間」である必要は無い。なのに何でもかんでも「仲間」という真実味の無い言葉でくくろうとする。
少なくとも私にとって、そんな言葉は漫画の中だけで充分だ。
END
「仲間」
祭りという非日常な時間と空間がある理由が、なんとなく分かった。
着馴れぬ浴衣や、見慣れぬ屋台。普段は静かな神域が飾り布で彩られ、笛や太鼓、鈴の賑やかな音が鳴る。
すれ違う人は皆、どこか浮かれた表情をしている。
そして誰も――他人の事なんか見ていない。
「·····」
だから自然に、どちらからともなく指先が触れ、それを合図に互いに指を絡ませた。
雑踏の中を少し足早に歩く。
繋いだ手から互いの温度が伝わって、一つになったような気がする。
誰も――自分達の事なんか見ていない。
この非日常の時間と空間は、この為にあるのかもしれないと、ふと思う。
薄暗がりの中、互いの存在だけが明確で。
長い参道をこのまま手を繋いで歩き続けていれば、やがて繋がったまま一つの生き物になれるのではないかと、そんなありもしない妄想にかられた。
END
「手を繋いで」
ありがとうとごめんねを、ちゃんと言える人間になりたい。
昔、「何に対しての〝ありがとう〟なの?」と聞かれた事がある。ドキリとした。
ただの社交辞令として、ただ会話を締める為の決まり文句として、無意識に使っていた「ありがとうございます」。それを、見透かされた。
考え過ぎなのかもしれない。
でも、私自身そう思う事が時々あった。
「ありがとう」と「ごめんね」。
これをただの決まり文句として、「こう言っておけば取り敢えず大丈夫だろう」という意識で使っている相手は、すぐに分かるからだ。
何に感謝したいのか。
何を謝りたいのか。
それを間違えず伝えられる人間になりたい。
END
「ありがとう、ごめんね」
部屋の片隅で、二匹のくま🧸が寄り添っている。
互いの肩に凭れて、頭と頭をくっつけあう二匹のくまのぬいぐるみ。
互いの髪と目の色を似せて作られた〝彼等〟の姿は、見る度に胸に温かなものを呼び起こす。
部屋の灯りに照らされて壁に写る二匹の影。
くっついて、境い目の無い影は二匹で一つの形になって、一回り大きな生き物になっている。
――あぁ、そうだ。
くまを見つめる瞳がふわり、と柔らかく細められた。
私達はこうして、ある時は肩を並べて、ある時は背中を預けて、一人でいる時以上の力を発揮してきた。
大切なものを守る為に。
大好きなものを守る為に。
一人では出来ない事も、隣に彼がいるから出来た。
一人では不安な時も、隣に彼がいたから安心出来た。
今、こうしていられるのは、いつも、いつでも、隣に彼がいたからだ。
手を伸ばし、金色の毛並みをそっと撫で付ける。
心地よい手触りに、思わず唇が綻ぶ。
「ありがとう」
いつも隣にいてくれた彼に向けて。
物言わぬ彼等に向けて。
そっと呟いた言葉には、万感の思いが込められている。
「·····どういたしまして」
「!?」
声に驚き振り向くと。
幸せそうな顔で寝息を立てる男の姿があった。
END
「部屋の片隅で」