キャリーを引いてゲートへ向かう。
ピラミッドを逆さにしたような特徴的な建物の、全景が見える位置で振り返る。
年に一度。新幹線に乗って、ホテルを予約して、まったくの自己満足の為に赴くこの場所。家族にも、職場の人間にも、決して理解出来ない感情に突き動かされて、まったくお金にならない活動の為に、睡眠時間も、なけなしの財産も投げ打って思いを爆発させる。
手に取って貰える可能性は限りなくゼロに近い。
そんな事は分かっている。
そんな事は半分どうでもいい。
手に取って貰えるのは確かに嬉しいけれど、思いを爆発させたものを形に出来た。それが既に嬉しいのだ。
何時間も座って、一人もブースに来て貰えない事だってザラにある。でも、それでいい。
この空間が、この空気が、私は好きなのだ。
ガラガラと音を立てて沢山のキャリーが通り過ぎる。
一人で足早に行く人、友人同士語り合いながら歩く人。そんな人の波の中でぽつんと一人立ち尽くす。
仕事に追われ、人間関係に疲れ、家族に愛想を尽かし、何度もこの活動をもうやめよう、と思った。
でも、何度もうやめようと思っても、またここに帰ってきてしまう。――もうこれは、業のようなものだ。
だから私はさよならは言わないで、あの特徴的な建物を見上げてこう言うのだ。
「また来年」
END
「さよならは言わないで」
灰色が好きとあの子は言った。
黒でも白でもない、曖昧な色がいいと。
極端なのは苦手なの、とも言った。
夏や冬より秋が好きで、昼や夜より夕方が好きな子だった。きらびやかな都会の駅ビルより、少し田舎の街のショッピングモールが好きで、映画化されたベストセラー小説よりその横の棚に一冊だけある本が好きな子だった。
今、あの子の部屋には誰もいない。
曖昧なのが好きなあの子の部屋は、嘘みたいに綺麗に整えられている。
服はここ、アクセサリーはここ、本棚はここ。
日用品はこの引き出しで、筆記用具はこの箱の中。
混ざった物など一つも無い。
「·····どっちが本当のキミだったの?」
あの子が好きだと言った本を取り出しながら、ぽつりと呟く。
吊り下げられた服は抑えた色味のものもあれば、ビビットカラーのものもあった。私と会う時はいつも抑えた色味だったが、別の一面もあったのだろう。
私に見せていたのは光か闇か、どちらだったのだろう?
――いや、どちらでもあり、どちらでもないのか。
光と闇、その境もはっきりとある訳じゃない。
あの子はその狭間で生を謳歌した。それだけの事だ。
パラパラと捲っていた本の中から、紙が一枚はらりと落ちた。
『センセ、ありがと!』
END
「光と闇の狭間で」
「月まで3km」という道路標識がある。
それは実際にある月という地名までの距離で、のどかなボート乗り場であるらしい。行った事無いから分からないけれど、その道路標識だけでも何だかワクワクするから不思議だ。
地球の衛星である月までの距離は、約38万km。
案内板で表示するにはまだまだ遠い距離だ。
しかも地球と月の間には真空の宇宙空間が広がり、月には水も空気も無い。重力も違うし、生命は存在しない。人類が月に行くには、まだまだ障害が多くて膨大な時間がかかる。
でも、それでも――。
いつか『月まで38万km』という標識や案内板がロケットの発着場に表示される日が来るのだろう。
その夢を繋ぐ人々の、心の距離はどれだけ遠く隔たっていても限りなくゼロに近いのだから。
END
「距離」
どちらがいいですか? と聞かれた。
「泣かないでください」か「泣いていいですよ」か。
その、冷徹にも聞こえる声が今の私には有難かった。
夜の森には私と彼、起きているのは二人だけ。他の者は長旅の疲れが出たのか、皆泥のように眠っている。
無言で揺れる炎を見つめていたら、不意に名を呼ばれた。
「後悔しているんですか?」
「なにを?」
「何もかもを」
彼の青い目がまっすぐ私を見つめる。焚き火の向こうに見える彼の目が、炎のように私を炙っている。
ここでもし、誤魔化すような事を言ったら彼は私を許しはしないだろう。過去の全てを抱えて、罪の全てを見つめて、それでも共に歩くと決めたのだ。彼の覚悟と決意に、私も応えなければならない。
「――してないよ」
小枝を一本、火に焚べながら私は答えた。
「後悔はしていない。私は今も、あの思いは間違ってなかったと思っている」
方法は間違った、とは思っているけれど。
そう言うと、彼は厳しかった表情をふわりと和らげた。
「貴方らしい」
そう笑った彼の目に、光るものが見えたのは気のせいだろうか?
「でも、そうだな·····」
「明日からまた歩き出す為に、さっきみたいに鋭い声で言ってくれるかい?」
〝泣かないでください〟
私の為に。
貴方の為に。
君の為に。
明日からまた二人で、歩き出す為に。
こうして強がる事が、お互いの背中を押す事になるのだから。
END
「泣かないで」
オレンジと黒とカボチャだらけだったショッピングモールが、赤と緑とサンタクロースだらけになった。
クリスマスケーキとおせちと年賀状印刷のチラシが入るようになった。
コンビニに肉まんとおでんが並び始める。
あぁ、日本の冬だなぁ。
END
「冬のはじまり」