昔の編物の本は何故か芸能人がモデルになっているものが多かった。
自分の彼、もしくは憧れの〇〇に着てもらいたいセーターを編む、というコンセプトだったのだろう。
私自身は編物なんててんで駄目で、子供向けの編み機のオモチャもろくに動かした事が無い。綺麗にマフラーが編める母を凄いと思っていた。
だからなのだろうか、誰かが編物をしている姿を綺麗だと感じる。
最近だとオリンピックで話題になった海外の選手。
周りが歓声や何かでざわつくなか、黙々とセーターを編んでいる姿が印象的だった。
そうして完成したセーターの、可愛らしくて鮮やかなこと。何かに集中している姿の美しさと、完成した時の笑顔。彼が満たされている事が伝わってくるエピソードだと思った。
〝着ては貰えぬセーターを〟は昔あった歌だけど、編物にしろ刺繍にしろ、手仕事というものには想いが込められている気がする。
お気に入りのセーターは手編みじゃないけど、工場で作られたものだって暖かさは変わらない。それはきっと、「安価で暖かいセーターを寒さで困っている多くの人に着て欲しい」という想いがあるからだ。
END
「セーター」
空を舞うものに憧れる。
鳥、昆虫、気球、飛行機、ドローン、宇宙船·····。
空に憧れる気持ちは誰にでもあるだろう。重力に縛られた私達は、地上から離れることに膨大なエネルギーと技術を必要とする。
でも、よくよく考えてみて欲しい。
空を舞うものはことごとく、落ちていく可能性をはらんでいるということを。
射かけられて。
撃ち落とされて。
衝突して。
故障して。
疲れ果てて。
美しい天使だって落ちていく。
空を舞うものはなんだって、落ちていくかもしれない恐怖と戦っている。
私達人間は臆病で·····その癖傲慢で·····、落ちていくというその恐怖を忘れない為に、自由に空を舞うことが出来ないようになっているのかもしれない。
END
「落ちていく」
おしどり夫婦、仮面夫婦、亭主関白、かかあ天下·····。
夫婦を表す言葉は色々あるけれど、第三者からの視点と本人達の感覚には乖離があると思う。
おしどりは別に特別仲が良いというわけでもないし、仮面夫婦だって本人達や子供がそれで幸せならいいと思う。亭主関白もかかあ天下も、どちらかが強くて、その強い相手に言われる通りにする事が心地よい人だっている。
〝いい夫婦〟〝理想の夫婦〟と持て囃されてる人達が次の年離婚してるのなんかいくらでも見てきた。
それでも私達は何か、これが理想、これが正解、というのを知りたいのかな、と思う。
END
「夫婦」
眼鏡に細かい傷だか汚れだかがついて、何回洗っても落ちないよー!!
END
「どうすればいいの?」
他人から見ればゴミなのでしょう。もっと価値のあるものはあるのかもしれませんし、綺麗にすれば見栄えがよくなるのかもしれません。誰よりも、私がそれを分かっているのです。
しおれて変色してしまった花冠。
花も葉もすっかり枯れ落ちて、もう冠の形をほとんど成してはおりません。
ええ、あなたの仰る通り。
同じ花を探して作り直す方法もあるのでしょう。
ここでなら、ドライフラワーにするという手もあるのでしょう。
でも、いいのです。
私にとってこの花冠は、花の美しさは二の次で。
あの方が摘んだ花。
あの方が編んだ冠。
それが私にとって、何にも変え難い宝物なのです。
だからどうか、このままで。
色あせた花とくたびれた葉。
金細工を扱うかのような繊細な手つきでそれに触れる彼は·····それはそれは幸せそうな顔をしていて·····私は胸が締め付けられる思いがした。
END
「宝物」