暗闇の中に何かが蹲っている。
膝を抱え、周囲をきつく睨みつけ、身を固くして蹲っている、小さな子供。――あれは私だ。
暗がりの中で何かに怯え、何を恐れ、何かに怒りを抱えている、幼い私。
伸ばされた手を、掛けられる言葉を警戒し、その奥に隠された意図を探ろうとする疑心暗鬼に取り憑かれた私。子供の狭い世界には二つの存在しかいない。即ち、敵か味方か。
人を信用出来ない。血の繋がりがあろうと関係ない。私の場合はむしろ血縁者が最大の敵だった。
だから、戸惑う。
差し伸べられた腕の意図が分からない。
暗がりの中、ぼうと浮かぶ口元の、笑みが。
幼い私はその腕を振り払い、笑みを浮かべる口元を睨みつけるが、相手は笑みを湛えたまま、尚も腕を伸ばしてくる。
「何がしたいんだ」
ようやく口を開いた私に、相手は笑顔のままこう言った。
「君を知りたいんだ」
「――」
幼い私が子守唄代わりに聞かされたのは、欲と、怨嗟と、呪いだった。
「君を知りたい」
吹き込まれた毒と闇を溶かしたのは、たった一言、ほんの短い言葉だった。
差し伸べられた手を取って、幼い私が立ち上がる。
歩き出し、光に照らされた相手の顔は私がよく知る男のもので。
「おはよう」
そこで目が覚めた。
END
「暗がりの中で」
コーヒーも紅茶も、なんならワインも人並みに嗜むけれど、どれがなんという味かなんて殆ど分からない。
ブレンド、アメリカン、モカ、グアテマラ。
ダージリン、アッサム、オレンジペコ。
シャルドネ、リースリング、ソーヴィニヨン。
名前も品種もそれこそ無数にあるけれど、私にとってはみんなコーヒーで、紅茶で、ワイン。
それ以上でも以下でもなくて、みんなそれぞれ美味しい。
あ、でもコーヒーと紅茶とワインの味と香りがみんな違うことくらいはさすがに分かります!
それじゃ、駄目ですか?
END
「紅茶の香り」
愛してる、とも好きだ、とも言えない関係だった。
言えるわけがない、言ってはいけない関係だった。
多くのものを傷付けて、多くのものを失った。
そうして互いしかいなくなって、それでもいいと思ってしまった。
そんな地獄のような関係を、愛だの恋だの甘やかな言葉で飾っていいはずがなかった。
だから愛してる、とも好きだ、とも、言わずに二人で歩き続けた。
それでも互いが必要だと、互いが手放せないのだとどうして確信出来たのか。
「·····」
愛を語る言葉より、互いの全てを受け止める強さを信じたからだ。醜い心も、弱い部分も、全てを受け止める強さがワタシを惹き付けて、決して放さぬと決めさせた。
愛してる、とか好きだ、とか、千回言うよりたった数回腕を伸ばしてくれたことが、ワタシにとっての〝愛言葉〟だった。
END
「愛言葉」
なくても生きていくことは出来る。
あった方が人生の選択肢が増えるし彩り豊かになる。
人であっても、人以外のものであってもいい。
数が多ければいいというものでもない。
そういうものだと思う。
END
「友達」
「行かないで」
そう叫べたら良かったのだろう。
もっと幼い子供の頃に。
そう叫んで、他人の目など気にする事なく泣き喚いて、子供なりに〝譲れないもの〟があるのだと、思い知らせていれば良かった。
置いていかれること、意志を黙殺されること、背を向けられることが怖いのだと、力の限りに叫べば良かった。
「〝聞き分けのいい〟子供だったからな、私は」
そう言って、皮肉げに唇の端をつり上げる。
グラスにはまだ半分ほどワインが残っていたが、何故か飲む気にはなれなかった。
テーブルに置いた手に、ひやりとした手が重なる。
指をなぞる手の感触がくすぐったくて逃れると、手はまたすぐに追ってきた。
「言っていいよ」
「――」
「何が欲しいのか、何が怖いのか。全部私に教えて欲しい」
「·····もう子供じゃない」
「関係ないよ。私はもっと、あなたの事が知りたい」
「·····」
「なんだってしてあげるよ」
再び重なる手のひらに、わずかに力がこもる。
その強さが心地よいと感じてしまうほどに、絆されている自分が何だかおかしくて、私はさっきとは違う笑みが浮かぶのを抑えられなかった。
END
「行かないで」