形の無いものは目に見えない。
目に見えないからあるかどうか分からない。
大切にしなきゃいけないのに、それは些細なことで崩壊し、流れ出し、消えてしまう。
優しさや、愛情が、怒りや嫉妬や僻みで押し潰されてしまう。
だから私は本を読む。
本を集めて、棚に並べて、目に見える形でいっぱいいっぱい本を積む。
形の無いものを育む為に。
形の無いものが確かにあるのだと忘れない為に。
私の中に育ったもの、私の感情、私の興味、私というもの。その断片が本だと思う。
物に溢れた私の部屋は、私の中の形の無いものを守る為の部屋でもあるのだ。
END
「形の無いもの」
「気をつけて下さいよ」
昇っていく背中に声をかけた。
「大丈夫だよ」
彼はそう答えてどんどん上へと向かう。スーツのままジャングルジムを昇っていく姿はなんだかちぐはぐな感じがした。
「こんなに低かったかなぁ?」
「貴方が大きくなったんでしょう。身長何センチあると思ってるんです」
見上げてそう言った私に、彼はゆっくり振り返る。
「あははっ、そうか」
月を背にくしゃりと笑うその顔は、いつもより少し幼く見えた。
帰り道、たまたま通りがかった無人の公園。
街灯の灯りに照らされたジャングルジムに、彼は引き寄せられるように歩き出した。
「子供の頃はよく昇って遊んだなぁ」
そう言って彼は錆びたパイプを懐かしそうになぞる。
「妹もよく昇っては頭をぶつけたり落ちて膝を擦りむいたりしてましたね」
「君は?」
「私もまぁ、よく落っこちました」
「だよな。私もだよ」
そんな他愛ない話をしていたら、急に「昇ってみよう」なんて言い出した。呆気に取られた私に彼はジャケットを押し付けて、「よっ」などと言ってパイプに足を掛ける。
私はと言えば、半分呆れ、半分心配しながら昇っていく彼を見上げるだけだった。
「到着」
てっぺんに辿り着いた彼が声を上げる。
「景色はどうですか?」
パイプに寄りかかって尋ねた私に、彼は「あんまり変わらないね」と答えた。
それはそうだろう。身長190センチを超えるいい大人が使うものじゃない。飽きてすぐに降りてくるかと思ったが、彼はてっぺんのパイプに座るとそのまま月を見上げた。
「·····」
煌々と輝く月を背に、ジャングルジムのてっぺんに佇む彼の長身は妙に絵になった。
「君も来ればいいのに」
「遠慮しときます」
「じゃあ、落っこちたら頼むよ」
「いい大人なんだから落ちないようにしなさい」
隣に並ぶのはいつでも出来る。
今はこの、多分レアであろう構図をしっかりと目に焼き付けておきたい。
私の気持ちを知ってか知らずか、彼はしばらく月を見上げたまま動かなかった。
END
「ジャングルジム」
声が聞こえる。
目が見える。
話が出来る。
このアプリを楽しむことが出来る。
それはなんて、幸せな事なのだろう。
END
「声が聞こえる」
貴方と知り合った最初の秋は、何もかもが楽しかった。食欲の秋、芸術の秋、スポーツの秋、全部を貴方と楽しんで、寂しいなんて感じる暇すらなかった。
貴方と行った冬の温泉。
二人で雪見酒を楽しんだ。掘りごたつで足をつつきあって、年賀状を手渡しで交換した。
春に引っ越したアパートは、狭い部屋だけど窓から桜がよく見えた。どっちも本を捨てたくなくて、棚をどうするかで喧嘩した。
初めて行った夏の海。
夜の浜辺を手を繋いで歩いた。誰もいない静かな海で持ってきた花火を二人でやって、最後の線香花火は貴方の方が長持ちしてた。
そして、何度目かの秋。
落葉を踏み締めながら私は一人歩いている。
楽しい事しかなかった恋は、ある日突然終わりを告げた。
「ごめん」
たったこれだけの短いメール。それっきり貴方はどこかに行ってしまった。
秋に始まった私の恋は、何の前触れも無く終わった。
不思議と寂しいとは感じなかった。
私も、貴方も、きっと〝恋愛ごっこ〟がしたかっただけ。本当は貴方がいなくても、私がいなくても、私達はお互いに生きていける。それが分かっていた二人だった。
空を見上げる。
赤い葉っぱの間から、いやに澄みきった空が見えた。
「綺麗だね」
貴方もきっとどこかでこの空を見上げているのだろう。それはきっと、間違いない。
それだけで、良かった。
END
「秋恋」
大好きなんだ、本当なんだ。
そう言って彼は私の頬に両手を当てた。
軽く触れた唇はすぐに離れて、ごめんよ、と囁く。
その言葉が終わらない内に頬に触れていた手が滑るように首に降りてくる。
大事にしたいのに、ごめん。
ぐ、と力を込められて、私はひゅ、と息を詰まらせた。
◆◆◆
別れた方がいいよ、絶対。
彼女は真剣な顔をしてそう言った。
私はありがとうと囁いて、でも、と首を振る。
夏でもハイネックしか着なくなって、二年が過ぎた。
黒いシャツの下には今も、彼の指の痕がある。
アンタのそれは愛情じゃないんじゃない?
分からない。でも私は彼が大好きで、泣きながら私の首に指を押し当てる彼が、大好きで·····。
アタシから言ってあげよっか?
ううん、と今度ははっきり告げる。
大事にはしたくないんだ、大丈夫だから。ありがとね。
彼の指の痕が残る首にそっと手を当てると、私は反対の手で親友のグラスにビールを注いであげた。
私は人に恵まれている。
END
「大事にしたい」