上手くいかなくたっていいこと。
それはある。確かにある。
服装選びとか、料理とか、何かの競技とか、確かに上手くいかなくても別の手段があったり、誰かにフォローしてもらったりで大抵のことは何とかなる。
やらないで後悔するより、やって後悔した方がいい、というのはある意味真理だろう。
けれど、上手くいかないと困ることもある、
手術に失敗は許されないし、車の運転も下手なままだと事故のもとだ。今はもう無いかも知れないが、契約書のハンコを押す場所を間違えると大変なことになる。
上手くいかなくたっていい事なんて、本当は少ししかないのかも知れない。
END
「上手くいかなくたっていい」
蝶よ花よと育てられ、って言うけど花はともかくなんで蝶なんだろう?
そう思って調べてみたら、平安時代の和歌にその語源がある、みたいな記事を見つけた。
清少納言の歌への返歌らしい。蝶や花を育てた、という意味では無く、美しいものを愛でた、というニュアンスの言葉だったそうだ。
確かに蝶も花も綺麗で、儚げで、触れるにしても慎重に、大事に大事にしたくなる。
けれど語源となったその返歌には、少し悲しい意味があった。
美しさを失ったものを、盛りを過ぎたものを変わらず愛し続ける心を、ずっと持ち続けていたい。
END
「蝶よ花よ」
昆虫や魚といったある種の動物の中には、死ぬ時がプログラムされているという。
たとえば交尾を終えた時。
たとえば子育てを終えた時。
最大の仕事を終えた彼等は動く事すら出来なくなって、やがて死に至る。
人間の物差しで考えれば、それは哀れにすら思えるかもしれない。けれど彼等動物の視点で考えると、種にとって最も重要な任務を達成した事になる。
人間の中でそれだけの事を成し遂げる事が出来る人は、果たしてどれくらいいるのだろう?
そもそも人間という種にとって、最も重要な任務とはなんだろう?
不治の病の克服とか、環境破壊を止める画期的な方法を見つけるとか、そんな感じだろうか?
でもそれを成し遂げる事が出来るのは、ほんのひと握りだ。
何事も成せずに終わる。
少なくとも私にとって、人生はそう決まっているような気がする。
END
「最初から決まってた」
その強さも温かさも、生来のものなのだろう。
太陽に愛され、太陽を背負う彼は、けれど陽の光の無い場所でも強く、あたたかだった。
あの強さと温かさに、私は強く惹かれ、そして憧れた。彼のようになりたいと、彼のようにありたいと強く願った私はイカロスのごとく太陽に近付いた。
彼の強さと温かさは、私の心と体の支えとなり、やがて憧れは共に肩を並べて歩きたいという友愛へと変わっていった。
彼は私に強くなりましたねと言う。
彼は私に優しいですねと言う。
それが真実だとしたら、それは全部彼から貰ったものだ。夏に咲くひまわりのように、彼を追いかけ続けた私は、彼の強さと優しさの欠片を貰ったのだ。
私の胸には、彼という太陽が今も輝きつづけている。
END
「太陽」
鐘の音。
新郎新婦の門出を祝う教会の鐘の音。
鐘の音。
一年を振り返り来年の幸せを願う寺院の鐘の音。
鐘の音。
火事を知らせる火の見櫓の鐘の音。
鐘の音。
アスリート達にラスト一周を知らせるグラウンドの鐘の音。
どれも画面の中でしか聞いた事が無い。
一番身近な鐘の音は、学校のチャイムだった。でもあれも、キンコンカンコンと鳴りはするが放送だったから正確には鐘の音では無いのだろう。
学校のチャイムは、最初はどんな風に鳴らされていたのだろう?
本当の音というのが、どんどん遠くになっていく。
END
「鐘の音」