せつか

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8/4/2024, 12:13:04 PM

誰かを見上げるというのは、彼にしては珍しいのだろう。少し肩を竦めて、いつもの困ったような笑い顔を浮かべながら彼は私に「何にも心配することなんかないんだよ」と覇気の無い声で答えた。
「心配なんかしていませんよ」
そう答える私もきっと、覇気の無い声をしていただろう。彼の部屋はいつ来てもきちっと整っていて、一日置きにくるという優秀なハウスキーパーを私は内心で恨んだ。
「じゃあどうしてそんな顔をしているんだい?」
「そんな顔って、どんな顔です?」
「この世の終わりでも来るみたいな顔だよ」
「来るんでしょう、終わりが」
「まだ三年も先じゃないか。」
「もう三年後、です」
押し問答になりそうなのを回避したのは彼の方だった。
「昔は私の方が君に〝後ろ向きな事ばかり言うな〟と怒られていたのにね」
クス、と笑うその顔はやけに楽しそうだ。
「一人で家にいると嫌な事ばかり考えてしまいます」
そう答えると、彼はゆっくりと右手を持ち上げて私の頬に押し当てた。ひやりと冷たい、死人のような手だった。手首も細い。パジャマはよく見たらぶかぶかで、その姿が一年という時間の残酷さを私に伝えていた。
「いいことを教えてあげるよ」
そっと囁く。覇気の無い声はその分優しさが増した気がして、私は泣きそうになるのを必死で堪えた。

「君を毎日見上げることが出来て、私はとても嬉しいんだ。だって、出会ったばかりの頃みたいだろう?」
「·····っ」
「君を手本に人としての生き方を学んでいたあの頃みたいだ」
何も言えない私の頬に押し当てた指を、彼はそっと滑らせていく。
「あの頃みたいに、私に何か教えてくれよ」
「今更何を·····」
何と答えれば彼は喜ぶのだろう? 分からない。
この時になって初めて、私はずっと彼に与えられてばかりいたのだと気付いた。

「何でもいんだ。明日の天気でも、ニュースでも、外国の言葉でも。どんなつまらないことでも、何でもいから私に教えてくれ」
「·····あなたの目」
「うん」
「昼に見るのと夜に見るのとで、微妙に色が違うんです」
「それで?」
「私は昼に見るあなたの目が·····好きなんです。光の加減か、少し青みがかって見えて」
「そうか·····、知らなかった。君の目の色に少し似てるのかな」
「どうでしょうね」
「明日も今みたいな話をしてくれよ。まだ三年もある」
「ネタ探ししてきますよ」
「あっはは」

それから私は毎日一つ、彼に何かを教えるようになった。彼が私を見上げる視線は柔らかく、淡い笑みは包み込むようにあたたかい。だが彼の指だけはいつも冷たくて、私はそれがたまらなく苦しかった。
他愛ない会話。
だがそれが永遠に続けばいいと、彼の部屋を訪れるたびに私は思った。

END


「つまらないことでも」

8/3/2024, 5:06:51 PM

今日の大失敗を忘れられるといいなぁ!!


「目が覚めるまでに」

8/2/2024, 4:01:51 PM

色んな病室を見てきた。

私物をいっぱい持ち込んで、自分が過ごしやすいようにカスタマイズしてある部屋。
機械とそれに繋がるコードか床いっぱいに広がっている部屋。
ベッドの周りにぬいぐるみや家族の写真がいくつも並んでる部屋。
勝手が分からず全部新品で揃えた部屋。
スタッフが使う消耗品と器具がいっぱい置かれた物々しい部屋。

フィクションの中の病室は、どこか無機質なものが多いけど、現実はそうじゃない。
人の数だけ病室の空気や色も違って、印象も違う。
その一つ一つに、病魔に抗う物語があるのだ。


END


「病室」

8/1/2024, 3:17:05 PM

「もし、じゃなくてぜってー晴れじゃん」
「まぁ、だろうね」
「んで〝これまで考えられなかったような暑さ〟って言うんだろ、絶対」
「なんか昔は26℃で〝うだるような暑さ〟って言ってたらしいよ」
「マジで? 今より10℃も低いじゃん、ヤバ」
「もうこれが普通になるんだろうなぁ」
「うげー·····」
「まぁ、でも、晴れでも雨でも、あらかじめ分かってれば対処のしようがあるからいいよな」
「それはそう」
「知ってるか? 空からカエルとか魚が降ってきたって記録があるんだって」
「あー、なんかで見たな。なんとか現象って言うんだろ」
「それそれ。凄いよな、晴れた空からカエルがぼとぼと」
「衝撃映像じゃん」
「そういうのに比べたら、いつもと同じ晴れや雨が続くって安心材料だよな」
「それでもこうも暑かったら動く気無くす」
「昔は夏休みになったらどんだけ暑くてもあちこち遊びに行けたんだけどなぁ」
「歳とったんだよ」
「まだ二十代ですけどwwww」
「·····明日、どっか行く?」
「行かねー。家でアイスクリーム食って寝る」
「それが一番か」
「うん」

晴れた空からカエルでも降ってきたら、少しは涼しくなるのだろうか?


END


「明日、もし晴れたら」

7/31/2024, 3:28:35 PM

いつの間にか、眠っていたらしい。
開いたままの画集の背をそっと撫でながら、ついさっきまで見ていた夢を思い出す。
環境が影響したのだろうか。夢の舞台は湖で、私はまだほんの小さな子供だった――。

私は湖のほとりを一人歩いている。
黄昏時の湖畔は、やわらかな風が湖面を渡り、ふちに咲く名の知らぬ花の香りを私に届けていた。
降り注ぐ光が変わるにつれ、水面の色も変わっていく。歩きながらそれに見入っていると、不意に誰かが隣に並ぶ気配がした。

「どうして来たんだ」
心地の良い声だった。
いつの間にか手を繋いでいる。少し冷たい、でも大きくて優しい手だった。
「あなたに会いたくて」
そんな言葉が口をついて出た。
「どうして私に会いたいなんて思ったんだい?」
その声は優しくて、穏やかで·····、少し悲しい響きがあった。
「だって·····」
子供の私はあまり語彙をもたない。
頭の中の引き出しをいくつも開けて、ようやく見つけた言葉を私はその人にぶつけていた。
「だってあなたは·····、私の〝うんめい〟でしょう?」
私はそう言うとその人を見上げた。
淡い色の、湖と同じ色をした瞳が私を見つめている。
その視線は気が付けば同じ高さで、繋いだ手の大きさも同じだった。·····子供だった私はいつの間にかその人と同じ、大人の姿になっていた。

「うんめい、か·····。残酷な言葉だね」
そう言った時の眼差し。その儚さは何故か私の胸に不思議な風を呼び起こした。
「運命というのが本当にあるのなら、私はきっとまた君を傷付けてしまう。だから、一人でいたかったのに·····」
胸が締め付けられる。その人の口から悲しい言葉を聞くのが辛くて、私は繋いだ手に力をこめた。
「もう遅いです。私はこうして、あなたに再び会いに来ました」
淡い色をした瞳が僅かに見開かれる。
――そこで目が覚めた。

「·····」
大きく開いた窓からは湖の全景が見える。
月明かりを受けて輝く湖面は昼とはまた違う姿をして、強く私を惹き付けた。
――呼んでいる。
何故とはなしに、そう思った。そして私は確信した。
この場所がこんなに惹かれるのは、こんなにも懐かしいのは、〝運命〟だからだ。

画集を閉じ、コートを羽織る。
そうして私は、夜の湖へと·····私の運命へと向かって歩き出した。

END


「だから、一人でいたい」

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