せつか

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誰かを見上げるというのは、彼にしては珍しいのだろう。少し肩を竦めて、いつもの困ったような笑い顔を浮かべながら彼は私に「何にも心配することなんかないんだよ」と覇気の無い声で答えた。
「心配なんかしていませんよ」
そう答える私もきっと、覇気の無い声をしていただろう。彼の部屋はいつ来てもきちっと整っていて、一日置きにくるという優秀なハウスキーパーを私は内心で恨んだ。
「じゃあどうしてそんな顔をしているんだい?」
「そんな顔って、どんな顔です?」
「この世の終わりでも来るみたいな顔だよ」
「来るんでしょう、終わりが」
「まだ三年も先じゃないか。」
「もう三年後、です」
押し問答になりそうなのを回避したのは彼の方だった。
「昔は私の方が君に〝後ろ向きな事ばかり言うな〟と怒られていたのにね」
クス、と笑うその顔はやけに楽しそうだ。
「一人で家にいると嫌な事ばかり考えてしまいます」
そう答えると、彼はゆっくりと右手を持ち上げて私の頬に押し当てた。ひやりと冷たい、死人のような手だった。手首も細い。パジャマはよく見たらぶかぶかで、その姿が一年という時間の残酷さを私に伝えていた。
「いいことを教えてあげるよ」
そっと囁く。覇気の無い声はその分優しさが増した気がして、私は泣きそうになるのを必死で堪えた。

「君を毎日見上げることが出来て、私はとても嬉しいんだ。だって、出会ったばかりの頃みたいだろう?」
「·····っ」
「君を手本に人としての生き方を学んでいたあの頃みたいだ」
何も言えない私の頬に押し当てた指を、彼はそっと滑らせていく。
「あの頃みたいに、私に何か教えてくれよ」
「今更何を·····」
何と答えれば彼は喜ぶのだろう? 分からない。
この時になって初めて、私はずっと彼に与えられてばかりいたのだと気付いた。

「何でもいんだ。明日の天気でも、ニュースでも、外国の言葉でも。どんなつまらないことでも、何でもいから私に教えてくれ」
「·····あなたの目」
「うん」
「昼に見るのと夜に見るのとで、微妙に色が違うんです」
「それで?」
「私は昼に見るあなたの目が·····好きなんです。光の加減か、少し青みがかって見えて」
「そうか·····、知らなかった。君の目の色に少し似てるのかな」
「どうでしょうね」
「明日も今みたいな話をしてくれよ。まだ三年もある」
「ネタ探ししてきますよ」
「あっはは」

それから私は毎日一つ、彼に何かを教えるようになった。彼が私を見上げる視線は柔らかく、淡い笑みは包み込むようにあたたかい。だが彼の指だけはいつも冷たくて、私はそれがたまらなく苦しかった。
他愛ない会話。
だがそれが永遠に続けばいいと、彼の部屋を訪れるたびに私は思った。

END


「つまらないことでも」

8/4/2024, 12:13:04 PM