付き合い始めの頃、キスは嫌いだと言った。
出来れば手を繋ぐのも好きじゃないし、そういう事をしたいと思わない。そう言うと、彼は数度瞬きをして「そっか」と答えた。
数日後、「でも俺達、恋人でいいんだよね?」と聞いてきたので逆に聞いてみた。「おかしいと思う?」
彼は少し考えるように天井を見上げて、それからこちらを向くと二カリと白い歯を見せて「ううん」と答えた。
彼との時間は心地いい。
付かず離れずの微妙な距離感で、私の歩調に合わせてくれる。手も繋がないしキスもしないけど、私達は確かに恋人同士だ。
あの時の「ううん」という彼の答えが本心なのか、それとも私を気遣っての事なのか、それは分からない。
キスもしないし手も繋がない私達は、それでも確かに恋人で、世間の恋人達がしていることをやらない以外は特に大差が無い。
彼はキスをしたいのだろうか?
もし彼がキスがしたいと言ったなら、私は応えてあげられるだろうか?
想像して、吐き気がして、彼がそう言わないでいてくれる事を祈った。
たった一つ、キスという行為で私達の関係が破綻してしまうことを、私は今も恐れている。
END
「Kiss」
1000年後の世界はどうなってるだろう?
最近、実は今とあんまり変わってないんじゃないかなと思うようになってきた。
とりあえず、昔のB級SF映画みたいに人の姿が全く違うモノになってる、って事は無い気がする。
環境は大きく変わっているかな。
海面上昇とか温暖化とか砂漠化とか、今ある色々な問題が解決していたら、逆に緑が増えているかもしれない。
紫式部や清少納言は、自分が書いたものが1000年先も残ってて、読まれてるなんて想像したのかな?
あの頃生きてた人達と、今生きてる私達、多分そんなに変わっていない。
怒って、泣いて、笑って、恋して、食べて。
十二単を着て物語を書いた人も、宇宙服に身を包んで月へ旅立つ人も、きっと変わらない。勿論、ジーンズでショッピングモールに行く人も。
「ちょっと月まで行ってくるね」
小旅行に行くような気安さで、カバンに「竹取物語」を忍ばせて。
なかなか楽しいかもしれない。
END
「1000年先も」
「勿忘草の騎士って結構すごいよね」
「花を取ろうとして川に落ちて、ってやつ?」
「うん。自分はもう死ぬけどこの花だけは貴女に贈る。だから〝私を忘れないでくれ〟って、ロマンチックな話だけど、同時にすごく怖いなって」
「どこらへんが怖い?」
「だって、死んじゃうんだよ? 死んで、もう二度と会えないのにこれから何十年も生き続ける恋人に忘れないで、って·····それだけ想ってるって事だけど、すごく独善的にも見える」
「あー·····、なるほど」
「私だったら黒いチューリップを贈るかな」
「そのココロは?」
「〝私を忘れて〟」
「忘れていいのか?」
「もし私が先に死ぬようなことがあったら、私を忘れて幸せになって欲しいなって思うから」
「·····俺はどっちも嫌だよ」
「え?」
「忘れて幸せになることも、忘れないで不幸になることもどっちもソイツの人生だろ。どっちにしろ良かったか悪かったかは最期にソイツが決めることだ」
「·····そっか」
「忘れて幸せになることだって傍から見たら薄情だって思われてるかも知れないし、忘れないで不幸になってるように見えたって、ソイツはずっと恋人の面影を感じてて実は幸せかも知れないだろ?」
「·····そっか」
「だから忘れるとか忘れないとか、ほんとは些細なことなんだよ」
「·····」
「何度忘れたってまた知り合えばいいんだよ。そんで忘れないでいたら覚えてたものを残しておけばいいんだ」
「·····そうだね。私、やっぱり貴方とこうしてうだうだ喋ってるの、好きだな」
「·····まぁ、退屈はしないな」
――この話をしたのはこれで三回目。
貴方は何度この話をしても同じ答えを返してくれる。
忘れちゃって、ちょっと怒ったように同じ答えをして、今が幸せであることを教えてくれる。
忘れないでいるものは、実はあまり無い。
覚えているのは私の名前と二人が一緒に暮らしていることだけ。時に恋人だったり、時にきょうだいだったり、時に親友だったり。
――あぁ、違った。たった一つ、二人が忘れないでいることがある。
お互いが大切な、大切な存在だってこと。
それだけ忘れなければ、それでいいよね。
END
勿忘草(わすれなぐさ)
家から歩いて行ける距離に神社があった。
お社の横にブランコと滑り台と鉄棒があって、子供の頃はそこでよく遊んでいた。
ブランコは近所の子供達に人気で、いつも順番待ち。やっと乗れたと思ったら隣にいわゆるガキ大将タイプの男の子が乗って、そそくさと降りて逃げたりもした。
その頃流行っていたアイドルの歌を歌いながらどっちが大きく漕げるか競走したり、「いっせーのーせっ!」で靴を飛ばしてどっちが遠くまで飛ばせるか競走したり。たまに一人で、ひたすら無心に漕ぎ続けたこともあった。
夕方、帰る頃には両手にブランコの鎖のサビがいっぱい付いて、その鉄臭い匂いに笑いながら家路を急いだ。
今、その神社には粗末な木のベンチ以外何も無い。
ブランコも、滑り台も、鉄棒も無くなり、手水舎の水も止まってしまった。
管理が大変だとか、維持費が掛かるとか、そもそも子供がいなくなったからとか、多分そんな理由だろう。ブランコの横に生えていた大きな樹も、いつの間にか伐採されていた。
もうブランコから落ちて怪我をすることも、錆びた鉄の匂いに顔をしかめることも、突如目の前に出てきた虫に悲鳴をあげることも無い。安全で、清潔で、静かな神社は、でもどこか、居心地が悪くなったような気がする。大人になった私の足はすっかり神社から遠のいて、ふらりと立ち寄ることも無くなった。
この神社の神様は、静まり返った境内と神域に、誰もいないベンチに何を思うのだろう?
END
「ブランコ」
歩き疲れて、探し疲れて、体はとうの昔に使い物にならなくなっていた。
砂を踏み締める足の感覚は、既に無い。一歩踏み締めるごとに石のようになった足が重みを増す。
痛みも、熱も、感じない。ただ自分の足ではないような重みだけがあって、その重さに抗いながら、だが「もういいだろう」と心のどこかが呟くのを、彼は聞くとはなしに聞いていた。
「もういいだろう」
頭の中で声が響く。
「ここで足を止めても、誰も咎めませんよ」
「贖罪の声はきっと届いている筈です」
「君が足掻いたところで、変えられないもの、止められないものはある」
「そうまでして歩き続けることに意味はあるのでしょうか?」
「逃げたって、やめたって仕方ねえよ」
「いっそ楽になれ」
頭の中の声は友の声となって歩みを鈍らせる。
――もう、いいのかもしれない。
歩みを止め、空を見上げる。
青い星が一つ、夜の中に輝いている。
漆黒の空の中でたった一つ輝く星に、旅人は目を見開く。
「貴方のその歩みに、意味はあるのか?」
瞬く星がそう言っているような気がした。
「·····」
声にならない声を上げる。
彼方に輝く青い星。旅人が何より探し求めていたもの。
――あぁ。
意味など無い。無くても良い。ただ探し続けた星をついに見つけた。ならば、止まる訳にはいかない。
体はとうに死んでいる。だがそれでも、進まなければ。心が生きている限り。
「やっと·····見つけた」
気の遠くなるような旅路の果てに、旅人は星へと届くきざはしを見つけた。
END
「旅路の果てに」