都があったかどうかはあまり覚えていない。
私はずっと城で暮らして、地上を見に行く時もいつも城から直接水面まで上がっていたから、城の周りがどうなっていたのか分からないんだ。
湖と海では違うのかもしれないね。
私は物心ついた時からずっと彼女達と城にいて、生きる為の全てをそこで覚えたから。
最初から湖の底で暮らした私と、地上にいた者が水底に降りるのとでは違うのかもしれない。
でも、そうだな·····。
水底というのは静かで、居心地は良かったよ。
光はあまり差さないけれど、だからこそ時折見える陽の光は綺麗だった。
白い砂が降り積もったみたいに広がって、上を泳ぐ生き物の影が黒く差すのが見えてね。その影を追い掛けるのが楽しかった。
その人がどんな人なのか、私は知る術も無いけれど、海の底の都に辿り着けたなら、きっと幸せに、穏やかに暮らしていると思うよ。
◆◆◆
「還りたいのですか」
「·····私が?」
「私には貴方が湖に帰りたがっているように聞こえました」
「まさか」
「だったら何故·····」
そんな遠い目をするのです?
続く言葉は、それこそ昏い水底に音もなく飲み込まれてしまう。
――あぁ、こんな話、するんじゃなかった。
END
「海の底」
ある時は在来線と新幹線を乗り継いで。
別の日には夜行バスでひたすら走って。
そうやって年に数回、会いに行った。
会いに行って、歌や演技や話を聞いて、心地よい中低音がじかに鼓膜を震わせてくれるあの瞬間が好きだった。
仕事で大変な事があっても、家族との関係がギスギスしても、そうして足を伸ばすことで気持ちの切り替えが出来たし、何とか頑張ろうと踏ん張れた。
少し考えが変わったのは、例の感染症が世界を蝕み、年に数回どころか一回も会いに行くことが出来なくなってから。SNSでグッズを競うように見せあうことや、体調の悪さやギリギリのお財布事情を押してまで足を伸ばすことに違和感を覚え、疲れを感じ始めた。
「推しは推せる時に推せ」
けだし名言である、とは思う。
でもそれは自分の体調や経済状態に無理をさせる事では無いし、会いに行った回数や買ったグッズの数を誰かと競うことでは無いのだ。
自宅で好きな推しの曲(リリース年は古い)をヘビロテすることだって立派な推し活なんだと思った。
日常と呼ばれるものが帰ってきて、制限なく移動が出来るようになっても、以前ほど会いに行くことは無くなった。
多分、推しにとって私はあまり嬉しくないファンなのだろうと思う。でも、だからこそ会いに行くチャンスが巡ってきたらしっかり準備して、全力で楽しみたいとも思っている。
私を支えてくれた、私を形作ってくれた推しだけど、私の全部はそれじゃない。今はこんな感じで、一歩下がったくらいの距離感が私にとってはベストなのだろう。
「君に会いたくて」
距離も時間も飛び越えて、なんて夢みたいな言葉はもう、言えなくなってしまったのだ。
END
「君に会いたくて」
×××が死んだ。
自殺だった。
自宅近くの公園で首を吊った状態で発見されたそうだ。スカーフが首に食い込んでいた以外に遺体に不審な点は無く、自殺以外には考え辛いという事だった。
·····私もそう思った。
×××の母は目を真っ赤に腫らして泣いていた。
「分からなかったの」
ぽつんと小さく、消え入りそうな声でそう言った。
◆◆◆
今、私の手には彼女の形見だから貰って欲しいと言われた手帳がある。×××の母から託された物だった。
「あの子の事、忘れないでやってね」
そう言った声は、やっぱり消え入りそうだった。
文庫サイズの青い手帳には、彼女らしい丁寧な字でスケジュールが書き込まれていた。
仕事の予定、カラオケ、映画、ショッピング、旅行、自分と家族と友人、それに推しの誕生日。そう言った予定と共に「楽しかった!」「ミーティング疲れた~(><)」など、一言日記のような感情の発露が見られた。
「·····ええかっこしい」
思わずそんな言葉が零れた。
私は青い手帳を閉じて、タブレットの画面にあるSNSのアイコンをタップする。
何人かいるフォロワーの一人、真っ黒なアイコンで名前以外プロフィールも何も無いその鍵垢が、×××のもう一つの日記。
そこに書かれているのは、愚痴と毒と僻みと妬み。そして自罰と自嘲と自己否定。失望絶望悲観厭世。とにかくこの世のあらゆるものを否定し、自分自身と世界の終わりを望んでいる。
「こっちがアンタの本当の姿だったんだよね。·····というか、どっちも本当、か」
画面をスワイプしながら呟く。
前向きで、頑張り屋で、誰ともうまく付き合える×××。
後ろ向きで、悲観的で、何もかもを否定する×××。
うまく保たれていた彼女のバランスが、何かのきっかけで崩れてしまったのだろう。
彼女の母も、私も知らない何かで。
彼女の母も私も、それを知ることはない。
「アンタはきっと、それでいいんだよね」
一番最初の投稿まで戻ってみる。
〝最初で最後〟その言葉と共にすっぴんの×××が写っている。白い歯を見せて、大好きなドーナツを手に持って。
彼女にとってたった一人のフォロワーに向けたその笑顔は、「それでいいんだよ」と言っているようだった。
END
「閉ざされた日記」
それに気付いたのは、会社が入っている高層ビルを出て、しばらく歩いた後だった。
オフィスを出る少し前に見たニュースで、木枯らし一号が吹いた事を報じていた。今年は例年より一週間ほど遅いらしい。しばらく寒気の影響で寒い日が続くが、来週辺りはまた暖かくなって小春日和になる日もあると言っていた。
強い風がビルの谷間を吹き抜けている。
オフィス街だから風が強いのはいつもの事だったが、今日はその風に冷気が混じっている。道行く人は肩を竦め、上着の襟を立てながら足早に駅へと向かっていた。
「あまり寒くないなと思っていたんだが」
びゅう、と一際強い風が吹いた。
男が僅かに首を傾ける。風のせいで声が聞こえなかったらしい。
「風が強いのにあまり寒くないなと思っていたんだが」と今度は少し大きな声で言うと、男は青緑の瞳を数度瞬かせて言葉の続きを待った。
駅に近付く。オレンジと白の灯りが目にも、心に温かい。周りの人の足が早くなるのに合わせて、二人の足も自然、早くなる。
「コーヒーでも飲もうか」
そうだな、と答えて人気のカフェスタンドに飛び込んだ。
男がミルクたっぷりのカフェオレを頼んだのに、気付かれぬよう小さく笑う。
「風が強いのにあまり寒くないなと思っていたんだが」
さっきと同じ言葉を言ってコーヒーを飲む。
あたたかい。コーヒーが通った喉も胸も、それから背中と、左側も。
「君がずっと隣にいたからだな」
よくよく考えれば、見上げるのは彼だけだった。
自分より背が高い男と並んで歩くのは滅多に無い。
身長も体格も大きな、でもどこか子供のようなところがある彼の、あたたかさは何処から来るのか。
カフェオレを飲む男の頬が、僅かに赤くなる。
――きっと体温も高いのだろう。
木枯らしに震える街を見ながらそんな事をふと思った。
END
「木枯らし」
「×××ちゃんはさぁ、花好きだろ?」
「あ、はい。薔薇、ひまわり、桜、スミレ、紫陽花、チューリップ……どれも綺麗で、色や形が様々で……心を和ませてくれたり、好奇心を掻き立ててくれたり……」
「じゃあさ、宝石は?」
「宝石、ですか? ……そうですね、あまり馴染みはありませんが、原石のままの物の形の面白さや美しさ、宝飾品として加工されたものの細工の精巧さなどは、見ていて飽きません」
「だよな、俺もああいうの見るの好き。アメジストとか綺麗だよな。あ、絵は?」
「はい?」
「絵。絵画」
「あ、はい。絵画も好きです。美術館で見る巨匠の絵も、街角で見かけるスケッチも素敵ですよね」
「うんうん。あのさ、そういうの見た時に綺麗だって思ったり面白いって思ったりかっこいいって思ったりするだろ?」
「……? はい」
「……アイツがやってるのもソレなわけ」
「……」
「相手の美点を見つけるのが得意なんだよアイツ。んで、臆面も無く言えちまう。まぁそれが誤解を生みやすいっちゃ生みやすいんだけどな」
「××××さん……」
「はっきり言って、下衆の勘ぐりなんだよ」
「……っ」
「アイツは全然下心とか、そんなので喋ってないのに女と喋ってたらナンパ? それ言ったらここにいる全員ナンパしてんじゃん」
「……」
「俺がここに来たのはさ」
「あの時アイツを貶めた奴等全員ぶちのめす為だよ」
あの時も、今も、これからも。
何があっても俺だけは最後までアイツの味方でいるって決めてるから。
◆◆◆
そう言った××××さんの表情を、私は今も忘れる事が出来ません。
私は余りに未熟で、心や、言葉や、眼差しの意味をまだ理解出来ていなかったのです。
そして、自分が発した言葉の鋭さも。
××××さんはきっと私を許すことは無いのでしょう。
ごめんなさい。
自分の愚かさを知ったのは、全て終わった後でした。
END
「美しい」