「咳、鼻水、咽頭痛、発熱、倦怠感、筋肉痛、etc.……
これがどうして「邪な風」という漢字で表現されるんだろう?」
「お前はそういうめんどくさい事考えるから頭が痛くなるんだよ」
「気になったんだもん」
「いいからほら、口開けろ」
「あ、ウサギ林檎。なんでウサギなのかな?」
「あーもう、ほら!」
「んぐ」
「あれこれ考えるのは熱が下がってからにしろ」
「はぁい」
「まったく」
「ねえ」
「あ?」
「ありがと」
「……おぅ」
END
「風邪」
※不穏な話です
ビルの屋上で煙草をふかしている後ろ姿を見つけた。
彼の頭上を漂う白い煙が、少し遠いこの位置から見るとまるで抜け出した魂のように見えて、思わず足を早めた。
「探しましたよ」
彼は煙草を咥えたままゆっくり振り返ると、おどけたように肩を竦めた。
「君が来るとは思わなかった」
長い指に煙草を挟んでそんな事を言う。その仕草の何もかもが絵になって、しかもそれが嫌味になっていないところが不思議な男だった。
「知りませんでしたか? 私が一番周りを細やかに見ているんですよ」
彼は一瞬目を見開いて、そしてくしゃりと顔を綻ばせる。普段厳しい表情が多い彼の、その意外な幼さに私は突然胸を鷲掴みにされたような気がした。
「何をしてたんです?」
隣に並んで柵に凭れる。彼は煙草を一口吸って細く煙を吐き出すと、「雪を待ってた」と意外な答えを寄越してきた。
「雪?」
天気予報はここ一週間星のマークばかりだ。
彼は淡く微笑んで、煙草を挟んだ手を空へと向ける。
「空に縫い付けられたあれがさ、目に見えるあの大きさのまま落ちてきたら雪みたいだと思って」
彼の指先を追うと、夜空に冬の星々が輝いている。冴えた空気の中で輝く無数の星は、確かにしんしんと降り積もる氷の粒を思わせた。
「……あれが全部落ちてきたら、空は何にも無くなってしまいますよ?」
「うん。でも、真っ暗な中であれだけ沢山の雪に埋もれたら、きっと気持ちいいんじゃないかって」
「……」
彼は時々、こんな危ういところを見せる時がある。
ぽつりと、唐突に、まるで当たり前のことのように。
止めて欲しいのか、気付いて欲しいのか、それとも叱って欲しいのか。
捉えどころの無い彼の、心の奥底に何があるのかを知りたくて、私は腕を伸ばすと彼の指から煙草を奪って口付けた。
淡い色をした瞳が見開かれる。
唇が離れると、彼は煙草を持つ私の手に指を絡めて囁いた。
「君の指も冷たくて……気持ちいいな」
低く響くその声に、私は死の誘惑を感じた。
END
「雪を待つ」
「クリスマスだから、年末だからって装飾される並木や建物や公園も綺麗だと思うけど」
コンビニのホットコーヒーを飲みながら、階段を一段一段上っていく。
吐く息が白い。同じように階段を上りながら、私は彼の顔を盗み見る。夜の山道は暗く、ところどころにポツンと灯りがあるばかりで、彼の顔もはっきりとは見えない。けれど弾んだ声の穏やかさと足取りの軽やかさで、彼が今どんな顔をしているのかを想像する。
きっと子供みたいに目を輝かせているのだろう。
「着いたよ」
街の北端にある小さな山。
初めて登った山の頂きは少し開けて、こじんまりとした展望台が設置してあった。とは言っても、ベンチと柵があるだけの、本当に簡素なものだったけれど。
彼はゆったりとした足取りで、柵のギリギリまで近付いていく。私も後をついていく。
「……」
目の前に広がっていたのは、きらきらと輝く星の海。
昔見た天の川の写真を思い出した。
「俺はここから見る街の景色の方が好きだな」
ちかちかと点滅する光点。連なるオレンジ。薄緑色に輝くタワー。人の営みが宝石になって街という箱の中で煌めいている。
レストラン、マンション、教会、居酒屋、ゲームセンター、病院、コンビニ、風俗店……そこには聖も俗も無い。みんなみんな、輝く光になっている。
「この中に冬限定のイルミネーションもあるんだろうけど、ここから見てるとさ、わざわざ飾り立てなくたっていいのにって思わない?」
煌めく宝石を背に微笑む彼は、私の目に他の何より輝いて見えた。
END
「イルミネーション」
植物も、動物も、幼い頃から上手く育てる事が出来なかった。
植物は花を咲かせること無く枯れ、動物はある日突然動かなくなった。
命を育てることに向かない手、というのがあるような気がする。怠けている訳では無いし、面倒だと思った事など一度も無い。なのに何故か死なせてしまう。
まるで底の空いた桶に水を注ぎ続けているような、そんな虚しさを感じる。……それはきっと、私自身が愛情というものを理解していないからだろう。私の母は、私を人間としてでなく道具として育てた。自らの生を彩る為の装置、自らの欲を満たす為の部品として、都合よく働かせる為の我が子だった。そんなものに彼女が愛情などを注ぐ訳がなく、結果出来上がったのは空虚な、底の空いた桶のような私だった。
「簡単な事だよ」
穏やかな声で男は囁く。
「底が空いてしまっているなら、塞げばいいんだ」
頬にひやりとした手が触れる。だが今は、その冷たさが心地よかった。
「私が呪いを解いてあげるよ」
囁きと共に近付いた唇が、私の唇に軽く触れる。
「まずは……君が私とどうなりたいのか、だね」
「……」
望みを聞かれるのは初めてだった。その時胸に沸いた仄かな温かさは、何だったのか。
こんな〝簡単な事〟を、私はずっとずっと欲していたのだと気付いたのは……部屋に置かれた小さな花に、新しい蕾を見つけたある朝の事だった。
END
「愛情を注ぐ」
ショートケーキとモンブランとスフレチーズケーキとオペラ。どれもケーキという洋菓子だけど、ひとつひとつは全く違う。
しかもひとつひとつはフィルムに包まれてくっつかないようになっている。
心というのはそれに似ている。
寄り添ったり近づいたりは出来るけど、ケーキも心も、それぞれ別のものだから綺麗だったり個性があったりするわけで、箱の中でくっついてしまったり傾いて混ざったりしたら、それはもうケーキとは、心とは言えないものになってしまう気がする。
心をひとつに。
心を重ねて。
よく言う言葉。
素敵な言葉。けれどそれは不可能だと分かっているから、人は「そうありたい」と願うのだろう。
心と心は絶対にひとつにならない。
心と心は重ならない。
けれど近付く事と、寄り添う事は出来る。
お気に入りの店のショートケーキを独りきりで食べながら、そんな事を私は思った。
END
「心と心」