君と見上げる月
高校生の頃からの友人と、偽りの夫婦をしている。
それはお互いの両親を納得させるためにとった、同性愛者同士の苦肉の策だった。
愛はない。けれど不仲でもない。寧ろ、男女にしては仲が良い方だと思う。
仕事で疲労が溜まった日は、二階のベランダに出て、ぼうっと夜風に吹かれるのが好きだ。都会の喧騒から離れた住宅街はほどよく静かで、もう少し秋が深まれば様々な虫の大合唱が聞こえるだろう。
今日は特に、半分だけになった朧月が見える。
「圭。やっぱりここにいた」
柊介が網戸を開けた。虫が寄ってくるからと、部屋の電気は消してあった。
「六連勤お疲れ様。明日から二連休だよね?」
柊介が手に持った缶ビールを一本差し出しながら問う。ありがと、と言い、ビールを受け取った。
「そうだけど、明後日の休みがなくなりそう。体調崩した子がいてさ」
プルタブを開けると、小気味よい音が夜空に吸い込まれて消えた。
「大変だね」
「でも楽しいよ」
販売員という接客業が好きだ。
柊介も缶ビールを開けた。お互いに小さく傾け合い、無言で乾杯をする。
冷たいビールが喉を通り、胃へと流れ込む。
「はー、うまい」
一気に半分ほど飲み干した私と違い、柊介は少ない一口ずつ飲んでいる。
「ねえ、圭。今日の月は綺麗だね」
私たちの間に愛はない。けれど不仲でもない。寧ろ、男女にしては仲が良い方だと思う。だけど。
「それは……清史さんに言ってあげな」
私は、死んでもいいわ、と言うことが出来ない。
空白
BL注意
目の前に、一枚のプロフィールシートがある。
小学生の頃、主に女子たちの間で流行っていたものだ。淡いカラフルなシートで、色んな種類の制服を着た女の子たちのキャラクターが描かれている。確かあの頃、流行っていたキャラクターだったはず。雑貨屋にいけば必ずと言っていいほど、このシリーズで一通りの文房具があった。
【好きなものコーナー(食べ物)(色)(人)(教科)(本)(アニメ)(音楽)(映画)】【趣味】【魔法が使えるなら】【宝くじが当たったら】【将来なりたいもの】
虫歯になりそうなくらい甘い色味のシートに書かれている設問の数々を、僕は到底埋められそうにない。ひとつも思い浮かばない。その事実に胃が沈む気がした。
その時不意に、玄関の鍵が開く音がした。
「よっ、一葉。生きてるか」
リビングに姿を現したのは、やはり竹原敦也だった。その手には北海道土産の紙袋を持っている。そういえば先週末、北海道に出張だと言っていたことを思い出した。
「また勝手に来て……」
「ん? それなんだ?」
僕の小言をスルーし、敦也の手がプロフィールシートに伸びる。
「買ったのか?」
「まさか。小学生の頃、ふざけて渡されたのがまだあっただけだよ」
「ふうん。……名前すら書いてねえじゃん」
「名前が一番嫌いだもん」
一葉という名前をつけたのは母だと聞いた気がする。本当は父かもしれないし、兄たちの誰かかも知れない。今となってはそんなことどうでもいいし、あの人たちと同じ苗字であることも嫌だ。
「懐かしいな。俺も女子たちから何枚も渡されたっけ。なあ、これ、俺が書いていいか?」
「良いけど」
ソファから立ち上がり、ボールペンを取ってくる。敦也がシートの前に座っていて、僕はその隣に腰を下ろした。
ボールペンを差し出すと、敦也はさんきゅ、と短く言って受け取った。そして裏面から書き込んでいく。
【好きな物コーナー
(食べ物 アーモンド)(色 緑色)(人 )(教科 国語)(本 太宰治)(アニメ 豆しば)(音楽 ポップス)(映画 相棒)】
【趣味 読書】
【魔法が使えるなら 古傷を治す】
【宝くじが当たったら 世界旅行】
【将来なりたいもの 家族】
「ねえ……ちょっと」
なんだかムズムズする。敦也はお構いなしに表を向け、個人情報全部に書き込んでいく。
【ケー番 080……】
【メアド ……@……】
【年齢 27】
【名前 竹原一葉】
「ねえ!」
力いっぱい肩を叩くと、敦也は悪ガキっぽい笑みを浮かべてこちらを見た。
「だって、一葉が貰ったシートだろ?」
「だけど! た、竹原って……!」
「指輪受け取っといて、恥ずかしがるなよ」
骨折したまま緩く曲がってしまった左の薬指で、シルバーのリングが光を放っている。同じ物が敦也の左薬指にもある。
「それに。一葉が知らないことも、俺なら知ってるものなんだぜ。だから」
シートを再び裏返す。唯一空白の欄を、敦也は指さした。
「ここ」
【好きな物コーナー ……(人)】
「好きな人はってとこ。俺の名前書いてよ」
「は」
心音が跳ね、どっと汗が吹き出た。
「ほら」
ボールペンを握らされる。
「公開処刑……」
「誰かに見せるわけじゃねーんだから」
そうは言っても、当時これを渡した女の子の、ぼやけた顔がチラつく。確か背の高い、ポニーテールをした女の子だった。
【竹原敦也】
空白を埋め切ると、僕にもこんなに好きなものがあるんだと、実感が湧き始めた。
「……なんか、嬉しいし、照れる」
ぽわぽわと、体が熱を帯びる。敦也の大きな手が頭を撫で、頬にキスをした。
「北海道土産持ってきたんだ。食べようぜ」
そう言ってソファから立ち、台所に向かった。
敦也の姿が見えなくなってからプロフィールシートを表に返し、敦也らしい硬い字で書かれた【竹原一葉】の名前をそっと撫でた。
台風が過ぎ去って
雨が天井を打ち殴り、風が雨戸を揺らす激しい音が大人しくなった頃。僕は隣に住むユウくんが心配になった。
祖父が建てたという古い日本家屋に住むユウくんのことだ。木造建築で、土間もあるあの古い家は到底耐震工事がされているとは思えない。
「お母さん。ちょっと有島さんの様子見てくる」
十近くも歳の離れているユウくんとは友達だが、親の前では苗字で呼ぶようにしている。
「隣だけど、気を付けてね。色々飛んでると思うから」
弟とヒーロー物の人形でごっこ遊びに付き合っている母は、肩越しに振り返って言う。
「何かあったらすぐ帰ってくるのよ」
「うん」
倒壊している音は聞こえなかったけれど、防音加工もされているうちのことだから、分からない。瓦のひとつやふたつは落ちているかもと思い、父の軍手を勝手に持ち出し、長靴をはいて家を出た。
玄関を出て、うちの駐車場の前を過ぎると、深い木の色の門が現れる。
曇天を抱え、重厚な日本家屋が佇んでいた。何も変わらず、家は無事だったことに安心した。
玄関チャイムを鳴らす。しばらくして、銀髪に寝癖を作ったユウくんが玄関のドアを引いて現れた。
「……ああ、湊くんか。おはよ」
関西のイントネーションでユウくんは話す。
「おはよう、じゃないですよ。もうお昼の二時ですよ」
「今日平日じゃないん? 学校は?」
「台風で休校になりました」
「台風? やったら、家出たらあかんやん」
目を丸くしている。もしかして、爆睡していて台風に気付いていなかったのだろうか。怖がってないだろうかとも、台風が通り過ぎるまでの間ずっと、心配して落ち着かなかったのに。
「ユウくんが心配で来たんですよ。家が崩れてるんじゃないかなって」
「ふっふっふっ。三世代に渡って色んなとこ工事して、強してたんよ。抜かりは無いで」
不思議とドヤ顔をしている。そんな顔をすることではない気がする。
「はあ。そうですか」
「つめたぁー」
何にしても、無事で安心した。
「元気そうで良かったです。それじゃ」
「え。それだけ? 上がって行かんの?」
「はい。ちゃんと家にいるか、学校から不意打ちで電話がかかってくるそうなんです。僕が出ないと」
「へえ」
ユウくんに手を振り、帰路に着く。数歩歩くともう、自分の家の敷地内だ。
「ただいま」
「おかえり。もう帰ってきたの」
「うん。有島さん寝てて、台風に気付いてなかったんだって」
「ええ? あんなにうるさかったのにね」
確かに。家が揺れる程の強風にも関わらず、びくりともしなかったユウくんに、人知れず笑みを吹き出した。