ささくれ

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2/10/2024, 4:25:52 AM

人生で一度だけ、花束をもらったことがある。
わざわざ抱きかかえるまでもない、片腕にすっぽりと収まってしまう程度の小さなものだ。贈り主は知らない女性。仕事帰りに一杯やろうかと立ち寄った繁華街の一角で、パーティドレスに身を包んだ彼女に、すれ違いざま押しつけられた。
すでに相当酔っ払っているらしかった。どこをくぐりぬけてきたのか、綺麗にセットされていたであろう髪は崩れて跡形もなく、メイクも涙と鼻水でぐしゃぐしゃだ。私のスーツの裾をシワができるほど強く握って、空いた片手で花束を眼前に差し出してくる。その気迫に私が若干引いていると、彼女は大きな声で叫んだ。
「渡せなかったの!」
金切り声で脳が揺れた。
視界の隅では周りの酔客が足を止めるのが見える。私はいかにも「困っています」という雰囲気を出すために(実際に困っているのだが)少しのけぞり、胸のあたりに両手のひらを掲げ、降参のポーズをとった。見知らぬ彼女は構わずに続ける。酒の匂いがした。
「許せなかったしむかついてたけど!でも大好きな友だちだったから!最後に思いっきりお祝いして縁切りするつもりだったの!罪悪感でめちゃくちゃになればいいって!」
威勢のいい演説の端々が湿り気を帯びてくる。せめて距離を取ろうと試みたが、握られたスーツの裾を軽く引き戻しながら後退ってみると、そのまま身体がゆらりと傾いたので、あわてて元の位置に戻った。見知らぬ他人とはいえ、私のせいで怪我でもされては後味が悪い。
野次馬がスマホを構えるのが見えたが、自分にできる最大限の怖い顔をして睨みつけるのが精一杯だった。何せ身動きが取れない。彼らはニヤニヤと笑いながら去っていった。写真だか動画だかを撮るほど暇なら代わってほしかった。
「できなかった!会場にすら入れなかった!怖くて!幸せなふたりを見るのが!こわ、こわくて……!」
ついに嗚咽が混じってくる。
聞くに、結婚式帰り(というか棄権)なのだろう。親切に内情まで聞いてやる義理もないが、どうやら心から祝えない事情があったらしい。それでもしっかりめかしこんで、真意はどうあれ、結果もどうあれ、形だけでも祝ってやろうとしたのだから、難儀な人だと他人ながら思う。
もう何年も昔、手酷い振られ方をした記憶が蘇り、自分と彼女をほんの少し重ねてしまった。
あのときのあのひとは幸せになっているだろうか。
多少、痛い目を見ていてくれてもいいのだけど。

べろべろに酔っ払っている彼女は、そのうちにふらりと私から離れ、小さな花束を置き去りに繁華街の雑踏に紛れて消えた。一部始終を見ていたらしい年配の男性が「絡まれて災難だったな」と労ってくれたので、ハハ、と苦笑いで返す。
「まああの姉ちゃんも、あんたが黙って聞いてくれて、多少は気が楽になったんじゃねえか」
彼女が消えていった方を見て、男性が呟いた。見ているだけの野次馬は、いつも無責任に勝手なことを言う。

私は足元に落ちた花束を拾い上げ、なんだか酒を飲む気にもなれず、そのまま帰路についた。それからしばらく、私の部屋の片隅には、インテリアの雰囲気に不似合いな花束がひとつ、居心地悪そうに飾られていた。

2/7/2024, 2:12:57 PM

「私、本当は月から来たんだ」

生ぬるい風が吹いて、はるかの長い黒髪が波を打った。月の明るい夜だった。 

はるかは浮世離れした子だった。可憐で儚げな容姿はもちろん、竹を割ったようなあっさりとした性格で男女問わず人気があった。それでも、誰に対してもどこか一線を引いた、うすい壁一枚くらいの距離を保っていて、誰とでも仲が良いのに誰ともつるまない、良い意味で不思議な子だった。

はるかと私の距離が急激に縮まったのは、ある年の学校祭の最終日だった。
それまでは近くにいれば話をするくらいの、文字通りただのクラスメイトでそれ以上でも以下でもない、特筆することもないような関係だった。はるかとクラスメイトのほとんどが、多分そんな感じだったろうと思う。
最終日のメインイベントであるフォークダンスから逃げて、私は三階の空き教室に忍び込んでいた。ここは校庭の様子が見下ろせて、これから打ち上がるらしい花火もそれなりに見える、悪くない避難場所だった。フォークダンスを終えた人々がのろのろと仲良しグループや恋人同士に固まっていくのを、特に何を思うこともなく眺めていた。
そこにふらりとやってきたのが、はるかだった。
「あれ、どしたの」「うーん、ちょっと休憩?」なんて当たり障りのない会話を交わして、なんとなく近くの座席に座る。「フォークダンス、楽しかった?」「楽しかったよ。ちょっとドキドキした」彼女が冗談めかして笑うので、つられて笑う。「あとどれくらい続くのかな」「もうちょっとで終わるよ。花火はきっとすぐだし」「そっか。寂しいな」ぽつりぽつりと、思いついたままに言葉を投げていく。その空気が、意外なほど心地よかった。
ほどなくして上がった花火は、やはりすぐに終わった。
私たちはどちらともなく立ち上がり、熱冷めやらぬ生徒たちのざわめきを背に、友だちみたいに並んで帰った。

彼女の家が月にあるということを、私はその日はじめて知った。月の明るい夜だった。

2/4/2024, 7:12:38 AM

牛が鉄になるくらいの時間を、
木簡がディスプレイになるくらいの時間を、
三十一文字が三分間になるくらいの時間を、
言葉は旅してきたのだ。

鉄が、ディスプレイが、三分間が
知らない何かに置き換わるくらいの時間を
そうしてまた、言葉は旅してゆくのだ。

誰かが紡いだ素敵なかけらを
宇宙の隅に取りこぼしながら。