人生で一度だけ、花束をもらったことがある。
わざわざ抱きかかえるまでもない、片腕にすっぽりと収まってしまう程度の小さなものだ。贈り主は知らない女性。仕事帰りに一杯やろうかと立ち寄った繁華街の一角で、パーティドレスに身を包んだ彼女に、すれ違いざま押しつけられた。
すでに相当酔っ払っているらしかった。どこをくぐりぬけてきたのか、綺麗にセットされていたであろう髪は崩れて跡形もなく、メイクも涙と鼻水でぐしゃぐしゃだ。私のスーツの裾をシワができるほど強く握って、空いた片手で花束を眼前に差し出してくる。その気迫に私が若干引いていると、彼女は大きな声で叫んだ。
「渡せなかったの!」
金切り声で脳が揺れた。
視界の隅では周りの酔客が足を止めるのが見える。私はいかにも「困っています」という雰囲気を出すために(実際に困っているのだが)少しのけぞり、胸のあたりに両手のひらを掲げ、降参のポーズをとった。見知らぬ彼女は構わずに続ける。酒の匂いがした。
「許せなかったしむかついてたけど!でも大好きな友だちだったから!最後に思いっきりお祝いして縁切りするつもりだったの!罪悪感でめちゃくちゃになればいいって!」
威勢のいい演説の端々が湿り気を帯びてくる。せめて距離を取ろうと試みたが、握られたスーツの裾を軽く引き戻しながら後退ってみると、そのまま身体がゆらりと傾いたので、あわてて元の位置に戻った。見知らぬ他人とはいえ、私のせいで怪我でもされては後味が悪い。
野次馬がスマホを構えるのが見えたが、自分にできる最大限の怖い顔をして睨みつけるのが精一杯だった。何せ身動きが取れない。彼らはニヤニヤと笑いながら去っていった。写真だか動画だかを撮るほど暇なら代わってほしかった。
「できなかった!会場にすら入れなかった!怖くて!幸せなふたりを見るのが!こわ、こわくて……!」
ついに嗚咽が混じってくる。
聞くに、結婚式帰り(というか棄権)なのだろう。親切に内情まで聞いてやる義理もないが、どうやら心から祝えない事情があったらしい。それでもしっかりめかしこんで、真意はどうあれ、結果もどうあれ、形だけでも祝ってやろうとしたのだから、難儀な人だと他人ながら思う。
もう何年も昔、手酷い振られ方をした記憶が蘇り、自分と彼女をほんの少し重ねてしまった。
あのときのあのひとは幸せになっているだろうか。
多少、痛い目を見ていてくれてもいいのだけど。
べろべろに酔っ払っている彼女は、そのうちにふらりと私から離れ、小さな花束を置き去りに繁華街の雑踏に紛れて消えた。一部始終を見ていたらしい年配の男性が「絡まれて災難だったな」と労ってくれたので、ハハ、と苦笑いで返す。
「まああの姉ちゃんも、あんたが黙って聞いてくれて、多少は気が楽になったんじゃねえか」
彼女が消えていった方を見て、男性が呟いた。見ているだけの野次馬は、いつも無責任に勝手なことを言う。
私は足元に落ちた花束を拾い上げ、なんだか酒を飲む気にもなれず、そのまま帰路についた。それからしばらく、私の部屋の片隅には、インテリアの雰囲気に不似合いな花束がひとつ、居心地悪そうに飾られていた。
2/10/2024, 4:25:52 AM