本気の恋………とは?
本気じゃない恋、とは?
えっ、「恋」って、恋であるなら全部本気じゃないの? 恋の定義がわからなくなるお題。
何が違うのか「本気の恋」と「本気じゃない恋」。恋ってガチじゃないの? 「なんちゃって恋ごっこ」みたいなものがあって、その上で「本気の恋」という表現があるの?
わからん………
カレンダー
忘れっぽい私に、見開き一ヶ月のカレンダーノートは必需品だ。今年は来年のものをもう購入した。いつも年末になってから探していたが、小さなサイズのものしか残ってなかった。最近とみに視えにくい目には、大きなノートの方が楽だ。
このところ、自分のいろいろが一つずつ新しくなってきている。なんとなく記憶しているカレンダーの日付では、2週間ほど前からだ。
まず身体。どうしてこうなったと考えてもまだ解らない。苦しみ臥せて必死で呼吸を繋いだ。横隔膜をろくに動かせない5時間半、伴う頭痛、心拍異常。意識的集中力は全て息をすることに注いだ。それから丸二日間は異常な速さで身体の代謝が進んだ。今もまだ身体を動かすのに不確かさがある。しかし徐々に安定感が増してきているので、多分大丈夫。
持ち物や暮らしの道具の類も少しずつ新しく入れ替わってきている。前もって計画などはしていない。
確かに、私の人生は新しいフェーズに入ったのだろう。あれこれあってほぼ12年、社会人的活動からも離れていた。求人広告に記載されている文言もずいぶん変わったことに驚く今日このごろ。正直に言って新鮮だ。人の世は変わりゆくんだね。
不調だ。
長年続いたルーティンが消えたことも不調の一因かもしれないし、自分で思っていたより気を張っていたのかもしれない。しばし休めってことなのか…?
些細なことでも
些細なものごとを一つ一つクリアする積み重ねが、生活するということであり、生活は人生の拠点だ。年月のなかの積み重ねは、人間の地力に直結する。地力のある状態なら、さまざまな物事に対応することのできる安定感が出る。安定感が何をしてくれるのかというと、自分のできることをやろうとするときに、自分なりの「全力を遺憾なく発揮」するアクションを下支えしてくれる。“やり切る者は勝者”だ。他の誰かとの比較を絶した勝者なのだ。
勝者の誉れを掴むために救世主になる必要など無い。必要なのは、「自分で自分を行う」ことと、これまでと今の自分を育んで来るに関わった物事や人への感謝と、自分に優しくあることだ。
自分の手に届く範囲に、自分を育む最善のものはある。成長はステップの連続だからだ。次のステップは目の前のゴミを片付けることかもしれないし、あるいは誰かに電話をかけることかもしれない。多くの人が多分、「そんな些細なこと」と言ったり思ったりするようなものごとが、大事な「次の」ステップたり得る。劇的な嵐はたくさん壊してしまう。些細な風は安らぐ気持ちを呼び起こしたりする。
ものごとのサイズはほとんど関係ない。
ものごとの質は超重要だ。
些細なことのなかにも、その質を見ることが、先々の自分の実力になる。
心の灯火
消えることのないもの。忘れていても消えない。思い出して驚く、その磐石のような確かさ。心の最奥にある灯火はいつもそうだ。
灯火は伝播してゆく。誰かのなかの灯火が明るく強くなるとき、周りにいる人のなかの灯火も明るく強くなる力を得る。
自分自身が灯火だと自覚している人はどれだけ在ろうか? 誰が何と言おうと考えようと、あなたが自覚していようがいまいが、あなたは灯火なのだよ。いのちは皆、それぞれがユニークな灯火なのだから。
人間の社会システムは言う。「お前の代わりはいくらでも居る」などと。「こちらの都合に合わなければお前はいらない」などと。まさに世迷い言だ。そんな考えを表明する集まりとは距離を置いて、あるいは縁を切って、歪みの少ない場所を求めるのが良い。
歪みのない灯火、どんなだろう?
歪みの強い灯火、どんなだろう?
どんな姿でも、温度はある。