繊細な花
その花はアグレッシブネス満々で咲いてくる。程度のものさしなんて無いから、「どのくらい」なんて表現のしようもないけど、もし「お花って儚い」と思い込んでいる人なら、開いた口が塞がらない程度には「アグレッシブなやる気満々、ドヤ顔準備OK」で咲くのだ。
その花は「最近見てないけど、元気に存続してるのかな…」などと気にすると、「呼んだ?」と言わんばかりに唐突に顕れて咲く。小さな花、清々しい見た目、図太く頼もしい生命力とフレンドリーさ。
その花は、悲しみや寂しさにあってなお前を向く心を励ましに顕れる。印象的な深い色を纏って、すぐ近くで存在感に満ち満ちて咲いてくれる。
私の目から見える花達は、「弟子にしてください」と言いたくなるくらい、完全に生きている。そして間違いなく繊細だ。人間と花とはよく似ている。
私は生えている草花を引っこ抜けない。枯れたものならできるのだが、現役で生きているのは、相当の理由が無いとむしれない…たぶん、ローリングサンダーと似たような「できなさ」なのだ、トホホ…
1年後…あら? 見覚え新しいお題のように思うんだけど、またもや?
1年後を考える前に1年前を……って、やっぱり少し前のお題よね? うーん、今日はお題は置いとこう。純然とひとりごとを、整理するために書く。お題に関係ないので、次ページへジャンプ推奨。
自分は「化け物のようなもの」になりすぎているかも知れない落ち着かなさ。大切なものへの守護力を絶対的なものにしようと必死になっている間に、自分から人間の温度がこぼれ落ちてゆくような、これまで自分を支えてきてくれた人間的感覚が遠ざかって行くような、足元が確かでないような。以前には当たり前だったものが崩れ崩れ崩れて、当たり前とはほど遠く、しかし普通な気遣いは満ちているが、周りの誰も理解できない。説明するのも多分、徒労に終わる状況の全体像。私に見えているシンプルな突破口、話しても届かない歯がゆさ。どこに集約点を見つければ良いのか見えない今現在。私は自分の世界を変えた。また変える必要に迫られるような予感、わかっていること、多分知られていること、ひとつひとつすべてに降りて来ているフォースライン、巨大な方舟の可能性、私の方舟の範囲、時間空間感覚の定義と実際、星渡りの事実…
子どもの頃は
…大切な時期だ。大人になってからも生きる日々は大切なものだけど、子どもの頃に、「未来へのもちもの」が支度されると言って過言ではない。なので、「よき、どちらかと言えば助けになってくれるもちもの」を支度させてやりたいと思う………が、子ども自身が生まれながらに携えてきたものもあり、やっぱり親やおとなは、一定期間のセーフティーネットであったり、子ども自身が課題に当たるときに励ましたりすることぐらいしかできず、またそれが最大の贈り物であるのも事実だ。
生きて行く上で出会うものごとに与える「真実としての解釈」は、子ども自身の采配なのだ。そこを無理強いすることは侵害になる。
さて、かつて子どもでなかった人は居ないと思うが、「自分の真実」をちゃんと決めているだろうか?
ここに“自分の親がどうだったか”は関係ない。出会ったものごとが自分にとって「何」であるかを、ちゃんと決めているか、すべての経験に着地点を見つけたか、いま、新しく一瞬一瞬展開する事実が見えているか、はた、と見てみることも、ときに役立つ。
がんばれ、かつての子どもよ、と、自分に投げかけてみる今日この頃だ。
日常
最近は、少しずつ「日常」の価値がしっかりと認識される向きが増えてきている…気がする。日常を平穏な日常たらしめるための努力を、無自覚に為している人も多いだろう。日常から生きる力は生まれ、日常は精いっぱい生きる場であり、大きな変動の疲れは日常のなかに癒える。
さて、私は強欲だから、すてきな、夢みたいな日常の物語を見てしまって「キィーっ、幸せだわね、すんごい羨ましいわ、ぐぬぬ…」などと思った。それは『じいさんばあさん若返る』という物語だ。原作は確か漫画、平行してアニメ。まさに“絵に描いた餅”なのだが、懐かしい部類の日常をベースに描かれていて、引き込まれた。
自分の日々は一般化すべきじゃないとわかっている。私の日々は私の世界であり唯一無二であり、誰の日々もみなそうなのだと。
でも、遠い輝きを見てしまったような気分になったのだ。むぅん。
さて、吐き出したからスイッチを切り替えよう。
私の「最高」も、誰の「最高」も、それぞれ独自のものなんだからね。それが各々の、日常のなかにも先にもあるのは間違いない。人のものじゃなくて、自分のものが。自分の命とともにあるものが。
好きな色…は、別に無い。美しいと思う。きれいだな、と思う。輝く彩雲は本当にきれいだった。
それぞれの色の波長に効果効能があるのもわかる。私は多くの作業で色を重視する。
しかしこれといって「好きな色」は、思い当たらない。
生きものが現す色は美しい。緑鮮やかな草葉も色とりどりの花々も、すごくきれいだ。見ると嬉しくなる。私は何を見ているんだろう。
生命感は美しい。生花と造花は内側から放つ響きがまるで違う。きっと、カラーセロハンで作った擬似的な虹と実際の虹や彩雲もまるで違うだろう。
美しい「かたち」を持って美しく顕れる色は、内奥の生命感の表現であればこそ、強く鮮やかに「美を響かせる」のだろう。たぶん。